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とうらぶ年表、01

Last-modified: 2015-11-05 (木) 15:38:39

本当は時代ごとでタイトル変えたいんですが、現状だとちょっと支障があるので暫定、タグなし。
記事名を変えて障害が残らない、タグがまともに機能することがまず必須なので、駄目なら引っ越し予定。
少しずつ項目が増えていって、量が増えるようなら独立するような仕様です。
…まあWikiというより現状だとただの公開メモ帳です、まともに機能してくれるといいですね…。

鎌倉年表

最初はなに作ってるんだかわからないと思います目的は追々。

・東大寺・興福寺の焼き討ち
治承4年12月28日(1181年1月15日)
 平重衝(平清盛の息子)がやらかしました多分事故、その後捉えられて首ちょんぱ…。
 民衆の怒りっぷりがちょっと半端なかったわりと読んでて怖かった。平氏追討令もこの直後。
 権門寺院を叩いておく的目的なんだけども大部分焼失は明らかやりすぎでした。

東大寺と興福寺と鋳物師について。

・後鳥羽天皇即位(第82代)
寿永2年(1183年)7月25日
 自分でも刀鍛冶やって全国から刀鍛冶呼んでた伝説があるよ。だだ記録の有無がばらばら。
 源氏平氏どっちとも関係があって、藤原氏の非主流派の家系らしいよ。
 まあこの時代に相応しいかな、刀鍛冶呼んでたら相応の施設跡があっていいとは…思うけど。
 刀鍛冶の伝説にしても鎌倉殿との対立姿勢がって言われてるけど源実朝(源氏最後の人)としばらく付きあったあとの話だし。なんかなんとなく微妙。

・聖福寺の創建(栄西)
建久6年(1195年)
 なんで年表にあるのか気にしないで下さい、2番目の禅寺で本格的なものはこれが初。
 博多の太閤町割以前の町の中心がこの寺だったと『ブラタモリ』で聞いたのだけど時期遅いなぁ。
 平清盛の日宋貿易の拠点って博多でいいのかなぁ、陳和卿も博多にいたらしいんだよねー。
 (東大寺復興のための技術を補う役目をしていた商人らしいです、南宋の人でいいのかな?)

☆備前・長船派の長光(光忠の子)に正応(1288年)以降の年紀があり、左近将監との名乗り。
確かこれ、銘になってたんじゃなかったかな。近衛府の従6位です。

信長サンの年表。

(今の時点だと松永秀久が分厚いよ気にしないで!!)

・織田信長元服
天文15年(1546年)
 数えで13歳。6歳時点で那古野城(名古屋城)が与えられたともあるね。
 織田三郎信長って書いてあったんだけど、三郎って幼名かなぁ。「上総介」もこの頃から?

・足利義晴(12代)、義輝(のちの13代)の都落ち
天文18年(1549年)6月
 細川晴元の家臣だった三好長慶に裏切られたのがきっかけ、かな。
 天文19年(1550年)5月に義晴死去、義輝が跡を継ぐ形に。
 この後、延々と京都に戻るための戦いが続く感じ。てか義輝氏きちんと即位したのかしらこれ。

・足利義輝(13代)の帰京
永禄元年(1558年)
 お帰りー、ただし三好長慶の支配は続く。
 でもこの人が生きてる間は足利将軍を殺すことは許さなかったぽい。
 この段階で小康状態になったのかいろんな人が京都を訪れた記録みたいなものがあるね。

・桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)5月
 今川義元が討ち取られ、【宋三左文字】が織田信長の手に。
 「義元左文字」って呼ばれてることもあるんだけども、宋三左文字です! って人たちいるよね。
 (多分ゲームもその派閥の人たちの意見を入れたのかと。)
 でもなして??

・多聞山城の築城(松永秀久)
永禄3年(1560年)
 翌永禄4年に松永秀久の入城。 もしくは眉間寺山、もともとここにあった寺が眉間寺。
 大和国支配の中心地であって、東大寺大仏殿のある山の向かい。多分延焼の原因かな…。

眉間城(多聞山城)と松永秀久について。

・三好長慶死去
永禄7年7月4日(1564年8月10日)
 松永秀久さんの主。病没、ていうか、四兄弟の長男なのでなんで確定した後継者いなかったんだろ? と思ったら確か最後の弟を死の11日前に殺してたよ。そらどうにもなんないね。
 しかしこのあとえらい慌ただしいなぁ…年単位にゃ。

・足利義輝(13代)の殺害。
永禄8年(1565年)5月19日
 ここで【薬研藤四郎】と【骨喰】が松永秀久のもとに行ったはず(寺にあったらしい)。
 三好三人衆ってよく聞くあれ。足利将軍に手を掛けたのは松永秀久ではなくてその息子。

・東大寺大仏殿の戦い
永禄10年(1567年)4月18日から10月11日
 大雑把に松永秀久と三好三人衆(三好長慶死後の三好家有力者の集団)の戦い。
 なんで東大寺が巻き込まれたのかあまつさえ燃やされたのか(松永の本拠地がお隣だったから)。
 でもわざと火を付けたとかはないだろ、大仏燃やして戦況のなにが変わるの延焼だろ?!
 ただ、延焼の責任は松永秀久氏でいいと思います、城の位置がなー…さすがになー。

・足利義昭(15代)の京都上洛。
永禄11年(1568年)9月
 織田信長がその後ろ盾になった件、14代足利将軍どうしたんだっけかこれ。
 この時に松永秀久が織田信長に「九十九茄子」と呼ばれる茶器を献上(贈呈?)。
 どうもその時に以前に薬研藤四郎を贈呈したことに言及してるらしい、これより前は贈呈だろうね。
 で、松永秀久が織田信長に連絡を取り始めたのが永禄9年くらいからなので、まあそのあとくらいかな?
 九十九茄子は足利伝来の茶器っていうけど侘茶始まったの東山文化の時代だったね??
 足利義政(8代)の時に山名氏の手に渡ってからわりと転々と、松永秀久が手に入れた詳細は不明。

・比叡山焼き討ち(織田信長)
元亀2年9月12日(1571年9月30日)
 比叡山で入力すると焼き討ちって出て来ますが、これは延暦寺のことですね、たまに山号で呼ぶの。
 時期考えると足利義昭(15代)との戦いの一貫かね、正親町天皇の弟の所領らしいから微妙…。

・織田信長と松永秀久の対決…。
元亀3年(1572年)~翌元亀4年(1573年、天正に改元)4月
 松永秀久その他でまとまってること多いけど、足利義昭(15代)勢と織田信長の対立ってほうが筋通る。
 松永秀久が負けた時点で東大寺の大仏殿の向かいにあったという多聞山寺も信長に引き渡し。
 まああれだ、東大寺大仏殿の向かいだしね、あると危ないからね…。

・松永秀久の自害
天正5年10月10日(1577年11月19日)
 この時点で信長裏切って数度目って触れ込みだけども、(足利義昭を)裏切ったの信長のが先だな?
 丸亀4年の段階で信長に臣従したということになるようです、降伏ってほうが正しいか。

・本能寺の変
天正10年6月2日(1582年6月21日)
 織田信長ファイアー、享年49歳。よく燃えました、てか、遺体が見つからないって結構壮絶。
 薬研藤四郎の焼失の場合はこの時点(私はこれ寄り、他の説の年表は入れない)。