ゲーム:刀剣乱舞、その25 †
9月11日めも。 †
『足利義政と東山文化』清水新書026読了です、んー、全体的には「応仁の乱」を見通すにはいい内容の本(タイトルは違うんだけどね)だったんじゃないかと思うんですが、どうもこう、微妙に引っ掛かるのが畠山政長の辺り。
というより、私が彼の行動を把握しているからおかしいって思っただけで、他の人物についてもおかしいところあったのかもなぁ。
具体的に言うと応仁の乱の中で細川勝元に見捨てられた時の流れが、基本的には一日の戦乱があって、それから自宅に立て篭もり、そこに細川の援軍が来なかったので自宅を焼き払って周辺の敵の死体を使い自分の死を演出した、だったと認識しているんですが。
(正直誰のことも貶めてないしこの内容を偽っても仕方ないしね。)
戦が始まる前に自宅と都の建物を焼いて神社に立て篭もり、さらにその神社を焼いてから逃走、という流れになっていたんですが…。
細かいことだとは思うものの、なんで敗色濃厚になる前に自宅を焼くの、そして別の邸までわざわざ戦の最中に焼くのむしろ隙作ってないか、で、神社も逃げる前になんで焼く必要があったのか。
なんかこの本の内容だと「都を灰燼にしたのは畠山政長」ということになってしまうんですが、焼いたものがことごとく彼の利益になってないってのが…どうにも。
いや、そこまで彼が清廉潔癖だとは思っていないものの、基本的に利益になることしかしないと思うんだけども、なんで無意味に暴れまくったみたいなすごい細かい変更が行われていたのか本気でわからない。多分どっかの史料にあるんだろうなこれ。
ただ、こういう改変今まで彼以外にも行われていた可能性があるのか、ううん。
9月12日めも。 †
『倭人と鉄の考古学』読了、とりあえず前から思っていたんだけども鉄の歴史の本なのに鋳物師が出てこないの釈然としないんだよ!! みたいなのが全てなんですが。
この本みたいに文献がメインでまとめられてると特にそんな感じだなぁ。
(そもそもこの本の中で出てきた大宝律令の頃にも宮内省の十三司に鍛冶(かぬち)と共に、典鋳(いもの)が大蔵省に属してたんだけどね、文字が違うからかしら…。)
あるいはあくまで鉄以外の金属だけって解釈しているのかもしれないとも思わないでもないんですが、鉄材料を扱ってるらしいことも商業関係なんかでは断片的に載ってるんだよね、この辺の研究はあるいはこの本よりもあとなのかしら。
中世商業史の研究が最近なのはまあ、そこは仕方ないしなー、周辺ジャンルからちょっとずつ掘り起こされてったはずだし。研究って大変だよね。
面白かったのはあれかなー、鉄の板がまるで貨幣のように流通していた時期があったものの、その後すぐに止めてしまったらしいこと。
要するに一時期製鉄に関しては非常に限られた範囲のみの技術だったこと、ただその加工に関してはわりと一般的だったこと、そしてその後、製鉄技術も広まっていったって意味だよねこれ。やっぱりそういう意味で日本はだいぶ特殊だよなぁ。
それと、鉄産国家は筑前・讃岐・長門・備後・備中・備前・美作・播磨・伯耆・紀伊・丹波・近江・能登・若狭・常陸・上総・出羽・陸奥らしいんですが(多分だけどこれ古代から中世初期くらいだよね)。
庸調鉄の貢進国は筑前・伯耆・備後・備中・備前・美作・播磨。九州と中国のみ。
この地域の分布の意味が解説されてると面白かったんだけど、なんでだろうね?
9月13日めも。 †
前に『たたら製鉄と日本刀の科学』を読んでいた前後に「マルテンサイト、ソルバイト、フェライト、トルースタイト」と呟いていたらもものまんじゅう(人)に教わった時のあれです、まとめです。
いや、当人と今も話してるものの、まとめるほどにまとまってはないんだ…ただ、曲がりなりにもそれを積み重ねることで多少理解に近付いたので一応の覚書き。
で、大雑把に言うとマルテンサイトというのが備前刀の表面を覆っている鉄の状態で、これがあれ、「硬くて脆い」と呼ばれる炭化鋼の状態の一種類。
『セメンタイト>マルテンサイト>トルースタイト>ソルバイト>オーステナイト>アームコ鉄(純鉄)(炭素量、ブリネル硬度高い>低い)』という順番のようです、基本的に日本刀は炭素が含まれてる鉄を使うのでこの中のどれかの段階のことが多いです。
ブリネル硬度ってのは捻りに強いみたいなニュアンス、割ろうとすると脆い。
あと、ももまんの言うには「アームコ鉄」って有名な商品名だってww 本の中ではフェライト(これも純鉄)と呼ばれてましたがこちらのほうが正式なんだろうね。
で、これはももまんの発言からの引用。
『鉄の格子に炭素が入ったのがセラミック、炭素の格子に鉄が入ったのが赤いダイヤにゃんね。結合のなかに入るか、結合済みの格子に潜り込むかで強度と色が変わる』
つまりあれ、セラミック(焼き物)、鉄、ダイヤ、ついでにガラスってのもそこまで違うものではないんだなー、というのがその話をしていた時の収穫でした。この辺の完全には境い目がないという状態がわからないとなかなか理解しにくかったです。
あ、語尾に「にゃん」って付いてるのは習性なので気にしないで下さい| ゚д゚)
9月14日めも。 †
で、前日の続き。
もともとこの話を始めたのが【刀剣博物館】の『備前刀剣王国』の展示を見に行ったのがきっかけだったんですが、なんか地肌が黒く見えたんですよね、チタンみたいなの。で、正直なところ状態が良すぎてちょいちょい古い刀にすら見えないという。
で、家に戻ったら転がっていたのが『たたら製鉄と日本刀の科学』で、もものまんじゅう(人)が鋼鉄産業の親類がいる人文趣味を兼ねてる有能なまんじゅうだったんです。
途中まで通じなかったんですが、これを言ったら話が通りやすくなりまして。
『そもそも日本刀ってのが炭素量が少ない心金を刃に、その周囲を炭素量が多い鉄で覆って硬化させるために焼き入れを入れていくっていう技術みたいなのでこれは確かに芸術的だなー、という気がする。備前刀はマルテンサイトっていう、二番目に炭素が多いフェライト構造体が表面覆ってるらしい』
で、教えられたのが「鉄は温度が高いと多くの炭素を抱え込める」ということ、冷やしていくとその炭素が構造体の中から押し出されるんですが、ゆっくりと冷やしていくとフェライト(純鉄)とセメンタイトが交互にパーライト構造を成して真珠光沢になる。
(どうも鉄の技術者にとってはこの「ミルフィーユ状態」が望ましいみたい。)
で、急速に冷やすとこのフェライトとセメンタイトの層が薄く形成される。
さらに急速に冷やすとマルテンサイトという状態になる、というのが大雑把な説明。
あんまり炭素が多いとセメンタイトではなくグラファイトとして分離するそうで、ダイヤとは構造違い、ガラスに近いんだろうけどガラスの組成分は謎とのこと、です!!
そもそも研ぎで刃紋が変わるのもパーライト構造だかららしいよややこしいね?
9月15日めも。 †
『三好長慶-諸人之を仰ぐこと北斗泰山』読了、で、全然主題じゃないんですが、多聞城ってのがあるんですげとね、日本で最初に「天守閣」が作られたらしくて、なんか織田信長の安土城? だったかに参考にされたらしいっていうお城。
大和国(奈良)の東大寺の向かいにあったらしいんですよなんかこれ。
作ったのが松永秀久ですね、足利義輝を暗殺したとか妖術遣いと付き合ってたとかいろいろ言われてる人。「東大寺の大仏燃やしたなんてありえない!」みたいに言われてましたけども、多聞城の位置が位置なんでそのくらいの嫌味は受け入れたほうがいいんじゃないかな、と思わないでもありませんでした。
もともとその山にあったという多聞寺の跡地にあったみたいなので、あるいは構造も取り入れてるのかもねー、この当時ってまだ城砦って未完成な時代だしな。
(これはこないだ東大寺の本で読みましたのよ。)
ただ、この松永秀久の評価が落下したのに従って彼の主君だった三好長慶までが引き摺り落とされたってなるとなー。
てか、地味に面白かったのが。
『ももまーん、松永久秀は基本的に信長と同格で、元亀4年(天正元年、1573年)に足利義昭に付いて信長と対峙、その時点で降伏して以降じゃないと信長に従ってないよ、という話があったのでちょっと聞いといて( ゚×゚)ノ』
まずこれ、ていうか、薬研藤四郎の移動が記録残ってないのはこれか。
で、約4年ほどで離脱してるので、そもそも臣従関係になかったと見たほうが無難っぽいなこりゃ、そもそもの前提になる部分を明日の日付けで続き。
9月16日めも。 †
そもそもあれだよな、私足利義輝(13代)がどのように殺されたのかがよくわかってなかったんですが、まず三好長慶によって追放されてその後しばらくの間三好長慶が将軍代行のような地位にあり、その後義輝復活。
三好長慶が死去、その後を継いだのが「三好三人衆」ですね、旗頭がはっきりしない間に松永秀久などと揉めるようになったんでこういう呼ばれ方になるっぽい。
(松永秀久は主殺しではなくて三好長慶の個人臣下で彼には忠実だったんだと。)
というか、松永秀久の力が強くなりすぎて三好氏を凌駕していたってからには、織田信長との差は確かにない、というか、同格という表現を受け入れたほうが良さそう。
互いに足利義昭を擁立するという立場を取っていたようです。
私この同格っていう前提の文章を一回だけ読んだことがあったんですが、その後、基本的には織田信長が主君って前提になってたみたいだなー。で、松永秀久が結構年上でわりと古くから活躍しているものの経歴不明、織田のほうが家がしっかりしてることまで踏まえると(織田は足利幕府の三管領、斯波氏の分家、ただし斯波がこの頃までに零落)、まあ関係は性格次第になりそうだなー。
なんか裏切られてもやたらと織田信長が気を使ってるってあったけど、そうでもない、というより、松永秀久が足利義昭サイドに立って織田と対立した場合、裏切りというより信長のほうが離脱したってほうがむしろ正確な表現だよなぁ。
もともと仲が良好ならば、好意的な態度取ってもおかしくないわ、そのほうが自然。
ただ、実際に信長配下に組み込まれた時点はあり、そこでの「献上」があったという話みたいね、で、これは記録されたんだな。んで前にあげた薬研藤四郎の話をしたと。
9月17日めも。 †
あと、三好家が地味に刀の名前に関わっていたんで、その関係をぽちぽち。
『やたらと変名が多い三好一族の三好政長(って本の中では呼ばれてた)がなんで「宗三」って名乗ってるのかよくわからなかったんだけど、一休宗純以降に堺の豪商を中心に「宗」の字を使うのが流行ったってあるから、宗+三好って意味かもなぁ、てか実休と一存の兄弟もそれか…?』
『長男が長慶、次男が実休(実休光忠の人)、三男が冬康、で四男が一存。で三男だけなんか宗教関係ないなって思ったらのちに「宗繋」って名乗ってた…ははははなんか面白いこの一族(*´∀`*) 親類の宗三さん倒しちゃったもんね…』
あれですね、【宗三左文字】の宗三がまずこの人。
こっから武田信玄の父・信玄に贈られまして、こっから武田家今川義元との婚姻に贈られたそうで、確かあれだ、武田氏と北条氏との和睦を計ったって時だよねこれ。あれは今川義元グッジョブだったよなぁ…。
それと、「実休光忠」はそれこそどうも織田家に来てからどれが実休が持っていた刀か、みたいな感じで探し出されたらしいんですが、そもそもよく考えたらそのために長船光忠を集めてたのか、という気もするし、宗三左文字も所有してるし、なんだ、三好ファンだったんだろうか信長、地味にww
てか正直、前から実休って妙な名前だよなぁ、と思ってたんですが、法華宗の間での流行りが「一休宗純」だとその一貫かもね(一存ってのもww)、日蓮宗の別名みたいなんだけどねこの集団。本阿弥光悦が付き合ってたのも確かここじゃなかったっけか。
しかし三好氏を過小評価されると事態がわかりにくいよなぁ、遠回りしたわ…。
9月18日めも。 †
『日本の美術126 禅宗建築』で一番気になったのが禅宗寺院が「山号」を持っているということなんですが、この山号、あったりなかったりがすごく曖昧だと思ってたらそこだったのかww 今までで一番驚いたのが浅草の浅草寺だったんですが、うーん、禅寺だったわけではないのかな?
お寺さんだと正直、どこに属してるのかがわりと変わってしまうこともあるみたいなので、どこかの時点で禅寺だったということなのか、それとも他に条件があるのか。
ただ、なんか禅寺って建ってる場所が辺鄙な場所だったりするので、建築技術みたいなものが違うんじゃないのかなぁ、と思ってるんですが、そこに関しての言及はいまいち。
上物っていう意味だと、わりと中国から呼ばれた僧の存在があるので、一旦他の建築様式と混ざっている寺院建築に、かつてとはまた別の進化をした大陸の様式が再度流入したって認識でいいと思うんですけどねー。
(あと、八角多重塔が禅宗様式だったので実に満足です、なんかそう思ってたww)
それと多分栄西さんの存在もあるんだろうね、臨済宗を日本に伝えた人ですが、そもそも東大寺の勧進職にあった時代に自分でどこの様式とも違う鐘楼(しゅろう)を作っていたんだとか、あとやたらと広い地域で作ってるな。
いやいやいやいや、そうじゃなかったね、禅宗建築を担当してるのはもう一般の僧って感じでそんなにばっきり別れてないのね。まあもともと「全てが修行」と言われてる禅宗だからそういう人たちがいても良さそうか。
寺院建築から一般建築に流入したという様子はこの時点ではないかな、城砦なんかには関係してる可能性もあるかなぁ、山に建てられてる時点で土台は変化してるよな。
9月19日めも。 †
やったよ、やったよおおおおお、ええと、なんだっけ【物吉貞宗】さんがあれです、脇差にて導入予定ー。貞ちゃん(燭台切さんが本丸で噂してる人)が来てくれたらいいなぁ、でも貞ちゃんは短刀がいいなぁ、ただ脇差(の可能性がある)欲しいなぁぁぁ。
みたいな願望がなんかよくわからない感じで合体した感じに嬉しいです。
貞ちゃああああああん(ノ゚д゚)ヾ!! みたいな気持ちももちろんあるけどね!
でも、兄弟が来たら来る可能性があると思うんだよさーだーちゃーん。
ええとあれですね、貞宗さんは相州伝で正宗に続く名前の人ですね、「上手の五作」の中にも含まれてたんじゃなかったっけか。
ていうか、やっぱり正宗さんもちょっとでいいから来て欲しいなぁ、寂しい。
なんか妙に真っ白なんだけどもなんですかね、あと、徳川家康が筆頭持ち主に上がってるらしいんですが、へー、見たことあったかしら。あ、うん、多分あるな…。
ええと、『享保名物帳』に収録、家康がよく腰にしていたという逸話付きか、その時の扱いが脇差だったってことでいいんですかね。短刀この時期使わんよな。
(【薬研藤四郎】もちょいちょい小脇差扱いになってるけど多分同じ話。)
ただ、幸運を呼ぶ刀ってのは、どうも時期的にどうなんだろう、江戸時代に始まったみたいな逸話に聞こえるんだけどなぁ…いやそんなに詳しくはないものの。
むしろこの刀があっち系のきっかけになってる可能性もあるのかな。
あっちっていうか剣相学ですね、刀の様子で吉凶を占うってあれ。
しかし剣相学持ち出さなくても武将がよく拘ってたっていうジンクスの一種って可能性もあるか、でも刀単位だとやっぱり江戸かなぁ。あ、いや、藤四郎もそれか。
9月20日めも。 †
『蘇れ古代出雲よ-出雲王朝は鉄の故郷・三刀屋にあった』読了、とりあえずぽちぽちと吉備とか出雲とかの本を借りているのは鉄の産地としての興味があるためですよ本当だよ、まああれ、出雲大社がまさか本当にあったなんて思われてなかったんだよねー、みたいなわりと最近読むようになったのもなかなか衝撃だったけどね!
そういやこないだ見たブラタモリでは、出雲大社ってそもそも江戸になるまでほとんど知られてなかったけどねー、御師たちが大黒天と結び付けて大流行したんだよ、と言われて友人ともども後ろにぱたっと倒れました、知らなかったああああ!!!?
いやまああれですよ、出雲と吉備が技術交流があったんだよん、みたいなことが触れられていたんですが、出雲はともかく吉備って鉄加工が出来たってわりには弱いような。
出雲はなんというか、神話でもそうなってるけど大和に完全に従わされてないよなぁ。
なんでそう思うかというと、記録の隠し方みたいなのが杜撰だからなんですけどね。
どうもこの鉄の技術はどちらが持っていたのかは微妙らしく、可能性があるとすると吉備は北ルート、出雲は半島ルートってことでいいのかな?
個人的には両者が別系統の技術を持っていたが故に交流したってこともあってもいいような気もしますけどねー(*´∀`*)ノ
その辺に関してはそれこそ鉄そのものの伝播の研究が進まないとなんとも言えないんだろうなぁ、あちらがわりとぶつぶつと切れてる時点でまだ先かもねぇ。
ところでももまんが超気にしてたんですが、400本弱の銅剣ってなんで出てきたんだろうね、鉄器があるなら実用武器じゃないよねぇ、というのは同意なんですが、まあ多い、あと銅鐸と銅矛もよくわからない、なんだろうねマジ。研究進んでるのかなぁ。
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