ゲーム:刀剣乱舞、その29 †
10月21日めも。 †
最近はまあもっぱら年表を打ったり、11月15日合わせのものをポメラ使って打ち込んだりみたいな感じです、薄暗い。というかよく考えたら家の中から一歩も外に出ていなかったよ、物理的に無理ってのも若干あるんだけどもいろいろ。
あと大河ドラマを見たり、高校講座の日本史を見たりです。することない。
大雑把に私が好きなのが【薬研藤四郎】なので関係するところから食べている感じなのですが、多分まあ、新刀とかのほうが情報多いです、よく見るし。
なんて説明したらいいのか迷っていたけど、(京都)堀川のとこの国広さん以降が新刀な感じなんじゃないですかね。一番最初の主君が大友だったか大内だったかまたわからなくなっていますし、ひょっとしたらどっちでもなかったかもしれない問題に悩まされておりますがそもそも私の守備範囲じゃないんだよ、みたいな。
どっちかというと虎徹のほうが興味あるかも、利刀を志した人ってやつで。
【堀川国広】というのはあれですね、お父さんの名前ですね、堀川くんの。
あと【長曽祢虎徹】というのもお父さんの名前ですよね、蜂須賀さんと浦島くんの。
長曽祢さんは多分だけど清麿でいいんじゃないのかなぁ、新々刀の人で、贋作の中でまともなのって清麿くらいだろ、と言われていた感じの人ですね。
やっぱり、新撰組で堀川国広とか、虎徹ってちょっと無理があるんじゃないのかなぁ、周囲の刀見ても、みたいな感じのニュアンスみたいですその辺。
だからあれ、兼さんも「之定じゃないよん、会津兼定の12代」みたいなこと言うわけだしなー、之定とは別れた家の人らしいですよ、ややこしいね。
なんの話かわからなくなってるのでまた翌日分に続く感じで、内容はない。
10月22日めも。 †
で、今まで日本刀関係をざっと見てて確定してると言って良さそうなのが鎌倉時代の刀が一番評価が高いらしいということ、でもこれ、美術品としてって意味ではなさそうなんだよね、要するに太刀が実戦として扱われた最後の時期らしいんですが。
わかりにくい言い方になってるけど、鎌倉時代の末期辺りはあんまり太刀が有効な時代ではない、と捉えています、具体的に言うと相州伝なんかが一部除いてその辺。
それ以前は、と言ったらば、それ以前の刀は実戦向きだと残ってないみたい。
奉納されるために作られた刀だとか、戦勝記念、必勝祈願などで奉納されただとか、まあなんらかの理由があるとたまたま残ってる、みたいな感じ。
戦勝記念の太刀辺りだと実戦に出てた刀ってのもあるんじゃないかな。
で、ご存じゲームでも出てくる【三条派】というか三条宗近の刀ってのはある程度以上の地位の人は持ってなきゃならない必須アイテムだったらしいので、話が別っぽいんですよね、これは何度か書いたけども。
【粟田口派】の吉光さんのところもそうですが、まあこれは、江戸時代に大名家が持ってるべきっていうやつだっけ? なので必要数がすごいというか、贋作かそうでないかをそんなに真剣に論じるものでもないようです。
というかなぁ、贋作って言っても普通のものとは全く違いそうだよね、質とか。
(なんとなく虎徹に対する清麿刀を思い出しましたが。)
そしてあと、「三作」ってのがあるんですが、これが粟田口吉光、正宗、郷義弘で、どうもこれは美術品としての価値っぽいです。
まあうん要するに、トータルで見ると粟田口吉光が特別でいいんじゃないかな的な。
10月23日めも。 †
21日からの続き、で、すごく大雑把になにを書いていたのかというと、【薬研藤四郎】にまつわる構成する要因全部、みたいな感じで調べているのでいろいろ果てしない感じになっているんだけども、わりと目的はそこら辺ですよろしくね☆ みたいな。
鉄の歴史調べてるのも、鉄の歴史調べないと鎌倉時代の「特別な刀」が理解出来ない可能性があるんではないかな的な意味です。だって薬研くんの時代だし、それからあとの鉄の歴史を調べてるのも鎌倉時代の鉄加工技術に関しての記録というものがきちんと存在するわけではないので後世の資料から逆算していく必要があるからだし。
寺やってるのも大陸中国から技術者が来たという記録があるのが仏教関連と、あと神社関係くらいのなので仕方ないんですよね、お寺さんの資料って歴史書じゃないから素人だと読めないし、歴史書くらいなら別に私でも読めるんでその辺があったらそこまで手広くやんなくてもいいと思うんですけどねー。
あと金属加工技術っていうと、時代と地域を紐付けしやすそうなのが仏像なのでなんと言っても、その辺を調べられたら調べたいなー、と思ってますけども、誰かやっといてくれてないですかね、これ。
そいであと、鎌倉時代の初期くらいに後鳥羽天皇が刀鍛冶どうのこうのという記録があって粟田口も呼ばれたらしいんで、とりあえず政治構造の必要性でしょ。
さすがに時代が近すぎるので東大寺復興を通しての技術交流も押さえていくとして。
あと、薬研くん含めた藤四郎刀が政治的に突出した存在になるまでの経緯と、その時代における刀の評価みたいなところがだいたい今やってるところです、建築は趣味混じり。
なのでなんというか、そこ以外ってそこまで興味ないんですよね。ミーハーなもので。
10月24日めも。 †
そういやついったを見ていたら10月29日からイベントが始まるらしく、ううん、みたいな気持ちになってますが、相変わらず白いよね、【物吉貞宗】くん、どうもあんまり白いんで頭が意識せずにスルーしてしまうみたいです、本当にただの性癖だと思うんですがなんじゃそれ、と自分でも思っているのでそっとしておいてあげて下さい。
鎌倉刀が一番好きなのって(とうらぶの中で)、色のメリハリがあるからじゃなかろうな私、あ、そういや、カード類とか買う時って左文字の兄弟だったな…メリハリ。
可愛いような気もするんだけども白い、すごい白い、鶴丸さんとなんか同じイラストレーターさんらしいんですが、あの人もものすごく白いよね。
鶴丸さんは言動を聞いてて「脆そうなキャラだなぁ」と思ったのでそういう意味では好きなんですが、そう捉えた方があんまりいらっしゃらないようなので残念だったんですよね。兼さんとかは揺らぎがわかりやすいと思うし、そこまで簡単に剥き出しにするみたいな印象ではないんですけどもね。
本丸セリフでお墓入れられたとか言われても、困るんだけど鶴丸さん、みたいな。
中傷にした時の【一期一振】さんに炎の話をされた時(今は一旦取り下げられてますこれ)とツートップで困ったよ、どうしろっていうの一体…。
いいんだよ回想とか自己紹介ならさ、わかるよわりと珍しい逸話だし! という。
なんの話になってるんだろう。
イベントはなんか、小判わりとたくさんあるので一気に駆け抜けるとかそういう感じになるのかなぁ。2番目の景観買った時点くらいまで苦労してた記憶があるようなないような、なんか物資類って困らないんだよね、理由わからないけど。
10月25日めも。 †
多聞山城(もしくは眉間城)のことが年表のあちこちに散らばっていたので回収がてらこれをぽちぽちと打っているのですが、正直なところ、どこの年代に入れるのが一番無難なのかすごく迷う。というかそもそも、なんで年表に載せているのかというとまあ、気になる城の中で知名度が低くて他の事情と連動して語られてないだろうなぁ、というのがまずあるのですが、大坂城とか二条城とか安土城なんて本あるわい、みたいな桁だしね。
大雑把に天守閣が最初に作られた城であると言われていること。
で、正規の資料に残る中で「最初の天守閣があった」とされる安土城が(要は確定)、この多聞城をモデルにしたということを読んだことがあって、ばらばらと資料を散見してる範囲では妥当なんじゃないのかなぁ。
これ、眉間寺(山号・多聞山)というお寺が元になっているのではないかと思っていたんですが、最近の発掘でどうも多少なりと裏付けられているらしく。安土城にも正直見るからに寺院建築が取り入れられていたのでいかにもそれっぽいな、と。
眉間寺を元にした眉間城ならともかく、安土城だと寺院建築を取り入れるための直接の動機みたいなものないしね、平地に作ってるし(禅寺なんかは特に山間部に作るには適した構造だったみたいです、他のもの建てられないみたいな土地によく建ってる)。
まああれです、そもそも松永秀久が奪った【薬研藤四郎】と骨喰がこの最初の天守閣のある城にいたんだなー、萌えみたいなのもあるんだけどね正直。で、薬研くんが贈呈された織田信長さんが次の安土城作ってっからな、ちょっと面白いよね、絵的に。
しかしこう、美しい城を東大寺大仏殿の見える山に作り、足利宝剣や美術品を手元に置いていた松永秀久、なんかマジ…、うん。
10月26日めも。 †
まあいろんな諸事情にてさっき11月1日になった感じのところです、今日はなんでこんなに疲れてるんだっけよく思い出せませんが、とりあえずまず「足利将軍から骨喰と【薬研藤四郎】を預かった」とされている家があるんですが、これが多賀豊後守。
豊後守はそんなに意味がないというかまとめて地位名みたいなものなので、多賀さんのお宅って意味なんですが、これが事実であっても事実でなくてもそういう記録は実在しています、少なくともそう書かれた理由はあるみたいで、人名と足利将軍の時期がなんだかおかしいらしいので家への拝領ってことで受け取っておきます。
その記録そのものも刀に詳しいから、みたいな書かれ方をしてるらしいんですが。
このお家から、本阿弥家へ婿養子に入ったらしくて本阿弥光悦氏のお父さんでした。
光悦さんというのは本阿弥光徳さんと並んでまあなんかだいたい、戦国武将関係の刀絡みでちょいちょい出てくる人です、薬研の押形取ってたり、【厚藤四郎】を回収してたり、骨喰を回収して徳川家に献上していたりとかそういう感じで出てきます。
(婿養子取った後で実子が出来たのでなんとなくこの二人の関係って曖昧なのよね。)
で、まあ、まだそこまではいいとして、刀に詳しい家から刀に詳しい家に養子に出たってのはそんなに不思議な話でもないしね。このお家がどうも多賀神社という「お多賀さん」と呼ばれる中世の民間信仰が盛んだった神社の神主さんの家系らしいんですが。
私東北の最前線地域の多賀柵(のちに多賀城、防衛拠点)から分霊されたのかなー、と思って調べたんですよ、この多賀神社を東北の最前線の土地にまず分霊したあとでそこの防衛拠点の名前そのものを担っていた順序らしいです。…え、武器関係の神社???
今の時点でわかってるのはここまでなんですが、これ以降調べられるかなぁ…。
10月27日めも。 †
現在とても腰が痛くて、部屋の外に出ると甥狸を運ぶことになりそうなので部屋の外に出られない状態で11月8日です、諸事情にてだいぶ間が空いたような、今までにもこんなことがあったようなどっちだっけみたいな気分になっています、腰が痛い。
で、こないだとうらぶの攻略Wikiの【長曽祢虎徹】さんのページを見ながらぽつぽつと呟いていたらば、あれ、今見たら文章変わったのかな? 単に私の受け取り方が違っているだけかもしれないんですが。
あれですね、虎徹の贋作であるという資料は偽作であるのが妥当である、という部分と、鴻池という豪商由来で新撰組に与えられたという話。
この刀が贋作であった場合に清麿作であるというのは、私は見た覚えがないから【回想】か【内番】かなぁ? まあ、贋作の中でまともなのは清麿くらいだろうと言われていたらしいので(全く無関係の本で読みましたよ)、まあ、創作ならそれでいいんじゃないのかな。
もともとは私、この贋作ではないのかもという説もありえるのかなって思ってました。
正直なところ、堀川派の国広と違って江戸刀工だし、そこまで評価高くもないのかなー、みたいな、新撰組なら手が出る範囲に留まってるのかなという認識してました。
が、皇室の刀の記録読んでいたら普通に出て来るわ、友人の子牛が見付けてたんですが徳川家の姫が嫁入りの時点で携えていたりしたので「あ、こりゃなさそうだ」みたいな。ぶっちゃけ小刀だったらありえてもいいと思うんだよね、それでも。
新撰組の隊長ががんがん実戦に使っても大丈夫で渡り合えるような豪刀だろ、うん、まあ、どこかの大名の宝刀だと思うよ…としか、ただ、鴻池家なら大名家から受け取ったって信じさせることは出来たかもなぁ、あんまり世情に詳しくない相手ならね☆ みたいな。
10月28日めも。 †
ぽちぽちと足利将軍(暗殺された将軍13代義輝)についての年表を打っていたら私がどうもWikiを読み間違えていたことに気付いたんですが、数えで11歳の時点で譲位されてたのね、お父さんの義晴さん(12代)から。
で、この義晴さんを調べるとこっちが堀川公方の血かな?
足利義稙(10代)が、義政(8代、日野富子の夫、この直系は断絶)の弟の義視の血でいいんだよな。11代が義澄さん(堀川公方)ですね。
私は書いてて意味がなんとかわかるんですが、もともと知っていても難しいような気がするよこれ、うん。
まああれだ、8代・義政のあとに家が分裂し、そこにどうも細川氏が付け込んだみたいな話なんじゃないかなって大雑把に読んでおくのがいいみたいです。
応仁の乱ってのがそもそもどこからどこまでなのかわからないんだけども(私のせいじゃない、戦の理由が複合でどこまでカウントするのかわかんないんだよ)、義視と堀川公方ってのがそれぞれこの義政(8代)の弟で、このどちらの弟の子を足利将軍にするのかで揉めたみたいな話っぽいからね。
そもそも【薬研藤四郎】を使っての切腹話もこの流れの中で起こった件ですよ。
正直、どう見ても一旦後継者に決められていた義視と堀川公方っていう別の家になってる弟だと義視のほうが正統に見えるんですけどね…。堀川公方選んだのは細川氏…。
(日野富子が悪いってされてるのはこの時点らしいんですが、畠山政長と協力して義視の子を選んでるじゃん、なんで時々逆に書いてあるんだよ!!?)
足利12代13代の顛末見てても細川氏に突かれてました、細川お前かあああ。
10月29日めも。 †
『大仏再建-中世民衆の熱狂』講談社選書メチエ56(だいぶ昔に)読了、とりあえず面白かったんですがだんだんなにを読んでいるかわからなくなったし、前から存在が謎だった足利将軍に仕えた「同朋衆」がどうもこの近辺から生まれたらしいことがわかってパニックを起こしていないでもないです。どうりでよくルーツがわからないと思った!
ええと東大寺復興に当たった重源が阿弥陀仏の名前を与えていた集団がいまして、その頭に付ける文字は「法華経」の中から選んでいたそうです。心当たりある人いると思う。
法華経って聞くと法華宗? みたいなことを考えるんですが、今はそこは置いておこうかなと思います、ただ、この東大寺復興の中から「鎌倉新仏教」が生まれたことは事実らしいです、あれだ、黒衣で庶民の葬儀に関わったって人たち。
すごく大雑把に言うと、東大寺の復興が大規模すぎたので権力者たちの手には余り、庶民からの援助を受けていたからのようで、そうだね、お金出して貰ったらその影響を受けるよね、仕方ないよね。
私が読みたかったのはどちらかというと物理的な建築関係のつもりだったんですが、まあその辺は、前から聞いていた中国の技術者の作業に、河内国の鋳物師たちが参加したら嫌がられたみたいな記録だけががっつり残ってるんですが。
この河内国の鋳物師のことを蔵人所に所属してないはぐれ鋳物師じゃないかな、と推測してらたのでそう受け取っておきます。他のもともとの鋳物師たちは特に記録に残すこともなくて揉め事だけが記録に残ったのかなぁ、と。まあありうる話ではあるよな。
同朋衆や法華宗ってのはまあ大雑把に美術廻りの事情の一環です、刀目利きの本阿弥さんなんかがちょいちょい関わってる系のあれ。
10月30日めも。 †
ええと私まず、今メインでやってるのがどちらかというと神社と寺だと寺なんですが(東大寺がファイアーしたところが粟田口と関係あるのかなぁ、と)(粟田口派が東大寺と一緒に燃えた興福寺の関係だったよ、という記述はあるんだよ普通に、なんかねぇよって無視られてたけども)、多賀神社がなんか本阿弥さんところとか足利将軍とか骨喰とか【薬研藤四郎】とかと関係してくるんならやりたいなぁ、という気持ちはありまして。
なにぶんにも、神社とか寺だとね、寺事情神社事情から調べないと…どの資料がなんのことを指しているのやらさっぱり、みたいな理由によります。
で、多賀神社を調べていた時にそもそも伊勢神宮、熊野三山と一緒に中世の庶民信仰集めてたんだよん、と言われていたんですが、熊野三山もあれだよな、砂鉄関係の資料がちょいちょい出て来てて(ただし詳細読めてない)、備前の刀工がどうもお参りしているような、ただの偶然かしら? みたいに言われてたし。
伊勢神宮は今まで無視ってたんですが、【小烏丸】を咥えて運んできた三本脚のヤタガラスってまあ、ここのお使いだよね…。
大和刀工の天國(あまくに)さんが作ったって説となぜか全く整合性が取れないし、中世の本を読んでいたら「伊勢神宮は精神的には東海道に属していると見られており、東国からの信仰を集めていた」と言われてなんかこう、ああ、うん、なんかちょっとわかる、と。
私育ちが愛知県人なんですが、伊勢の辺りまでは東海、そっからは西国っていうか関西だと思ってる節があるんだよね。近江っていうか滋賀はなんか関西。
なんの話でしたっけ、あと刀に関係あるっけ、みたいになってますが、あ、とりあえず「お多賀さん」は近江みたいです。もうちょっと整理してから喋ろう。
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