雑記:とうらぶその他、42 †
2月28日めも。 †
リアルタイムで4月11日、相変わらずキーボードが馬鹿になっていまして、まああれだ、ソフトキーボードを起動して「ー」だけを足しているのですが、「がつ」を打つのにが・つと別個に漢字変換されたりして非常に辛いです。
まああと、これ自体はパソコンのせいではないんだけども、サイズが一回りだけ小さいってのも地味に打ち間違えてちょっと辛い。
なんかだいたい隣のキーと打ち間違えるんですよね、これは誰も悪くないけどね!!
というかよく考えたら、私、ローマ字打ちも出来るんだからもうその方が早いや(打つキーそのものが多いからさすがにスピードは落ちるけどねー、仕方ない仕方ない)。
で、原稿のほうは進んでいます。
明日一度東京のほうに帰らなくてはならないんだけど、パソコンどうしようかなぁ。
現在、まあ耐えかねまして、大きなパソコンに乗り換えてみたんですが、これもまた慣れていないとだいぶ辛い。とはいえさすがにこれは打てなくなることはなさそうなんだけどね、なんか小さいパソコンだといろいろいろいろあるよね!
(ごろごろ家に転がってる中で多分一番大きいなこれ。)
ただまあ、正直このサイズだと持ち歩き出来ないのでどうしようもない。
原稿そのものはポメラと並立してなんとかしようかなと思っているんですが、やっぱりさすがになんか面倒。
というか、打てなくなることがないのがストレスがないのでしばらくこの子で作業してるね、かなりの時間を文字の打ち直しで時間取られてたからな、改めて自覚すると戻りたくなくなってくるわ真面目にぃぃ…。
2月29日めも。 †
『近江から日本史を読み直す』の読了ですねん、いや、『江戸300藩』のほうを先に片付けなければ、と思いながらこれを打っているんですがもういいや、無理とかしてもしょうがないや。
とりあえず琵琶湖が近い海(湖)でもって、静岡が遠江なんだよー、という覚え方はこないだ県擬人化さんのところで覚えました、鵜呑みにはしないから、地理がどうの順番がどうのということだけ覚えさせて! みたいな誰に言い訳してるんだかわかりませんが。
うんでもやっぱりおかげで忘れなくなりました、ありがたやありがたや。
いやまあさすがに近江=琵琶湖の辺り、は記憶しやすかったけどね。
この近い遠いってのは要するに近畿が基準ってことだよねぇ、で、この本を読んでいたらまず琵琶湖そのものが北陸からの水路によって穀物倉庫のような役割りをこなし、その上で北陸道、東山道(七道の一つだよ、のちの一部が江戸時代の中山道)とが湖の北端のところで合流しておりまして、そこに東海道も寄せられたんだよー、みたいなのを記憶しています、あと、戦国時代だと信長さんを裏切った義弟の浅井だの、六道? もいたっけとかそんな戦いやってた辺りだよね多分。
それと朝倉氏が奥のほうの北陸にいまして、みたいな大雑把な認識。
継体天皇に関しての話も面白くないわけではなかったものの、この地域が鉄の生産にとって重要な土地だったんだよ、というのは保留にしておこう。
のちに仏教の伝来があるくらいまで(仏教と一緒に各種技術が流入したんだよ)、鉄に関わることが一大勢力となりうるってのはわかるんだけどねー、でもあれ、吉備だの出雲だのまだ別にそこまで死んでないしなぁ。そういう意味でちょっと微妙。
3月1日めも。 †
『江戸300藩 物語藩史 東海篇』の読了ですねん、快適です、大きなパソコン慣れないなって思っていましたが今とてつもなく快適です、おかげでばつばついろいろ打ち込んでいます、環境ってやっぱり大切だよね、と再認識しています。
あと残すところこのシリーズも、中国・四国篇と九州篇を残すだけになったのですが、まあ九州篇は時間を掛けてもいいかな、と思っていないでもない。借りて来たのが少し遅かったってこともあるしね、というところももちろん全て私事です。
ここの雑記はあくまでも個人の日記なので失礼致しております。
で、気になっていたのが【一期一振】がいたような気がする尾張徳川家。
あー、あれだ、独立独歩だ、単に批判だけして終わるとかじゃなくて、倹約令一色になっている幕政の中で豪華さを前面に打ち出したのに遊郭や芝居小屋が集まってめっちゃ賑わっていたとか、その次の藩主が倹約して見事に成功したよ、とかとてもいい。
なにがどうというわけでもないんですが、今の東海人の柳に風というか、堅くならずに全てを受け流す気質の源泉を感じて悪くないよなぁ。
ここの名古屋城って第二次世界大戦の時に空襲で焼けたんですが、市民の寄付でほとんど一瞬で再建したんだよ、というのがわりとあれ、自慢です。別にお殿様頼みとかそういうことじゃないんですけどね、悪い印象じゃないんだよなやっぱり。
あとあれ、少し直系の子孫がよろしくなくて気になってました本多忠勝氏が、名君中の名君、と言われていて実に安心しました、ところでこの時代の武将ってそもそも標準技能として町割りとか城造りとか出来ないとやっていけないんかね。
浜松藩があまりに酷かったから心配してたけど、浜松藩だけが酷かったなんだあれ。
3月2日めも。 †
『日本の美術197 平安建築』の読了ですー、手元に本やデータがないままぽちぽちと打っているので数字(日本の美術の号数)が抜けています、あとでしれっと書き加える予定なのですが、もし抜けているままになっていたら忘れているということですね。
わりといつものことですが大したことでもないです、うん。
で、毎度のことなのですが寺の本です主に。
神社も多少はないでもないんだけども、どうも神社だと古式が少ないのか建築だとあんまり出てこないんだよなぁ(遷宮ってありますが、あれがそもそも寿命が来るという大前提があるというか、ぶっちゃけ倒れた記憶が、ぽちぽち)。
それと平安建築として奥州藤原氏の中尊寺が出てくるのにやっと慣れてきました、あれだよ、奥州藤原3代ってのが終わる頃が源平合戦の頃なんだからそれでいいんだよ! というのが慣れないんだよね。
前にそういう人を見たことがあるんですが、平安時代(めっちゃ長い)のすぐあとが鎌倉時代ということがいまいち飲み込めないというのがある可能性もある!!
いや機械的には覚えられるんだけど別に難しくないからね。
でも心の底では納得していないというか、院政の頃をもうちょっときちんと扱えばこの感覚が薄れてくるのかなぁ。
奥州なんてのもそうですが、要するに地方の勢力が振興してくるのが鎌倉時代という印象もあるのですが、よく考えたらそうじゃないんだよね、その辺は多分武士の土台となった荘園制などを間に置いて考えるべきなんだと思うんだよね。
もともと武士が各地の荘園を守るための必然によって台頭したって…建築の本だよ!
3月3日めも。 †
『徳川家康の詰め将棋 大阪城包囲網』を読了、まあ城の本でした! よくも悪くも城の本でした、江戸の初期に至るくらいまでの主な城を読むにはいいと思いますが(包囲網を作ろうとしたものの、完成しなかったという意味も含めて)、この時代の雰囲気を感じ取るとか大阪夏の陣とか冬の陣とかを知るのにいいとかそういうことはなかったですね。
で、私はどちらかというと伏見城のところでぐるぐるしていたんですが、えーと、あれだ、豊臣秀次(三好家と豊臣秀吉の妹との息子です、もうちょっと傍流かと思ってたら普通に中心に近くてびっくりした、ただ父親は早いうちに亡くなったのかな)の切腹以降、聚楽第が取り壊されまして、指月城を改装して伏見城として、この時点で地震にあって、それで徳川家が攻められなくて済んだんだっけか。
なんかこの辺の順番がわかってないんですよ私。
てか、今週(リアルタイムで4月12日)に見てた大河の信長死後の小競り合いの頃にも一回地震で急死に一生みたいな感じで助かってなかったっけか、家康。
本当によくわかっていないんですが、元禄から慶長へと変わったというかなり大規模な地震とはまた別だよね、そう考えると妙に運がいいよなぁ、家康さん。
なんですかね、この地震ラックみたいなの。
あとは正直なところ、どの城を読んでいても多分当時はそうでもなかったんでしょうか、基本的に統治のために作られているので臨場感がない、時代が違う、ということがわかっていても本当に戦に備えてるのかなぁ、というのが正直なところだなぁw
城が使い続けられた実用品というところがネックなんでしょうが、どうしても城単位で語ると時代感覚が分散するよね、むしろこの時代に関しては文献メインのほうがいいのかも。
3月4日めも。 †
『頼朝の武士団-将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』を読了、正直先ほどまでブックレビューのほうをまとめていたんですが、「源氏が勝っちゃったあとから見ると、平氏と源氏しかいないみたいな勘違いになって、わかりにくくなるよね」みたいなのが前半。
前半でいかに弱々しい存在であって、彼に加担したのがどれほどの英断だったか(もしくは愚行だったのか)、ということを語った後半が、東国の無骨な武士にとって源頼朝がいかにヒーロー的な存在であったのか、という部分で、とてもべらんめぇ調でした。
あんな喋り方をしていたのかどうかはわからんけど、ただ実際、当時の東国が近畿とは全く違う言葉を使っていた、とは言えなくもないからああいう言い換えもありなんじゃないのかな、という気もしないでもなく。
こう言ったらあれなんだけども内容があんまりにも益体がないのとよく合ってました。
年寄りまで含めて頼朝の狩り衣を奪い合っていたり、無二の親友の家系なのに殺し合いに発展していたりとか、東国武士ってばすごく猪。
私にとっての源頼朝の印象というのは「怜悧な文官」なのですが、なんでかっていうと教科書で読んだ彼の政策が、三官の役目を一緒くたにして効率化を図ろうとしたらば、人間の処理能力を超えていたのかそれぞれパンクした、すまんかった、みたいな内容だったのでですね、要するにあれだな、頼朝さんは可能だったんだな? というような判断。
(いつどこでなにが見付かろうとも、この認識は多分あんまり変わらないと思うんだ。)
わりと血筋の良い、ちょっとぼんぼんだけど高い行政能力のある、でも自分たちと親しく付き合ってくれるような人が、確固とした地位を手に入れたあとも近畿に居を移したりせずに鎌倉に留まってくれた、いいんじゃないですかね、なんか気持ちはわかるよ!
3月5日めも。 †
『日本の美術64 刀装具』の読了ですにゃん、大雑把に刀装に関しては江戸くらいにならないと個人名が出てこないのですが、後藤家ってあれかなぁ、【後藤藤四郎】のところの家でしょうか、基本的に「金座」の家とは認識してまして、そこで要するに今で言う銀行みたいな役ではあるものの、さらに言うと貨幣の発行もしてるんだよね。
同じ苗字だから関係のある家、とは言い切れないものの、要するにかなり技術的に近いのでちょっとややこしいと思うんだよねー。
関係あるとは限らないけど、関係あっても不思議はないんだよな。
ただまあ、刀装の家も金座の家もそんなに熱心に研究されているというわけでもないので、どこかで偶然見つけたら、みたいなことになるかしら。
個人名という意味で付き合わせればすぐという気もするものの、やっぱりどこかの研究者さんが言及しているところで見たいんですよね。
(関係あるのかなないのかな? と考えるところまでは素人でもいいようなものの、その関係に関しては専門の人が触れてくれたところで見たいのです。)
あとあれ、刀装だとどうしても「どの時代のものか」というところが曖昧なので研究そのものがいまいち進んでないんですよね。
権力者好みの刀装とか、刀装を作ってた人がいるよん、みたいなのはちょくちょく読むんだけどねー、そういう意味だと細川家のところが結構有名ですね。
てか、細川家ってあんまり織田信長と関わってるのかどうかって認識したことがないんですが、よく考えたら刀関係では何回か関わってるの見てるなぁ。
その時代には文化関係メインの家だと見られてたんだろうか…いまいちわからん。
3月6日めも。 †
「江戸300藩 物語藩史 中国・四国篇」の読了ですぅ、てか、今までとうらぶの刀の持ち主のところを見ているとだいたい中堅くらいまでの藩に収まっていたように思うのですが、丸亀藩が番外扱いだったのでかなり規模は小さいのかなこれ。
えーと、5万3千石、なんだか前の藩主(当主?)が妙なことになったので京極家が入った、というところまでは覚えていたんですが、こんな小さい藩だったのか。
なんとなく現代においての【にっかり青江】の曖昧な立場もわかるような。
比較的大きいのは長州藩、とあと岡山藩くらいかなぁ。
長州藩の毛利家がかなり領土を無茶な縮められ方をしていて(それが結局明治維新の原動力の一つにもなった)、ということはちょくちょく聞いていたものの、確かにまあ、微妙な立場だったのね、毛利家。
外様の大藩がだいたい本拠地を移されずに転封されないのって、前からちょっと不思議なんですが、なんか理由あるのかな。どこかで常識として語られてるかもしれないんですが、私あんまり江戸時代に詳しくないのでわからないんだよね。
四国、山陰山陽、とが範囲だったんですが、まあ上でも触れてますように大藩はない。
あとそこまで要所として捉えられているところもない、まあ、幼君が出てきた時にちょくちょく山陽から山陰の藩へと藩変えをしているところは見たのですが、転封というより親類同士の交換みたいなちょっとフランクなやり方だったっぽいしなぁ。
山陽と山陰との地位の違い、という言い方をされてましたが、これはどちらかというと山陽道が存在している関係だと見たほうが無難なんじゃないのかしら。
まあ主要幹線道のあるなしも含めて地位の違いと表現したらそれも妥当だけどね!
3月7日めも。 †
『日本の美術142 正宗-相州伝の流れ』の読了ですね。
図書館で予約した段階では「正宗」としかなかったので丸々1冊持つんだろうか? とちょっと不思議だったんですが、なるほど相州伝。
今まであんまり見たことがなかったのが長義さん(【山姥切国広】の本歌の人らしいとゲーム関係のコミュニティではたまに名前を聞きますな)、備前伝の本だとあんまり語られてないけど、ああ、噂に聞いてた相州伝に近い作風の人だったのか。
てか、新刀の初期の人らってわりと相州伝の写しを作ることが多かったんだね。
あとあれ、【大倶利伽羅】のお父さんである広光さん、南北朝くらいの人なんだっけか、ちょっと自信がないのですが、今までの本ではほとんど見たことなかったんですが、なんというか「その他」の代表格として広光・秋光と並んでいることが多かったです。
基本的には正宗を頂点として、次に貞宗(有銘の現存ないんだねびっくり! 記録には残っているのかなぁ)、で、行光(【不動行光】のお父さんだね見ればわかるけど)、それから広光、みたいな出来のヒエラルキーがあるみたいで。
褒め言葉にも「貞宗に紛れる」とか、「せいぜい広光」とか、かなり不思議な感じ…。
そもそも極め物というどの刀工なのか特定する行為においてもこの出来の良さみたいなものが基準となっているらしいので、なんだ、この、なんだ。
銘ありの刀のない貞宗さんとかどうなんだろう、となってました、言うべきではないのかもしれないんだけどもね!!
それとあと、一部が大和伝と混ざるらしく、長谷部派がなー、みたいなこと言われてましたよ、別にこんな曖昧でも困ることはないのかな、ないのかもね?
3月8日めも。 †
『江戸300藩 物語藩史 九州篇』読了ですにゃん、で、黒田さんとこがあるわけじゃないですか福岡藩、ていうか黒田の藩祖の先代が備前福岡(福岡一文字の福岡、備前ですってば)が故郷なので名付けた名前らしいね。かんべーさん、大河やってたけど。
あと細川さんとこもあるわけではないですか、全く関係ない土地からすっ飛ばされて来たんで苦労したようですが、あれやこれやと転封されてたけど熊本藩に落ち着いたってことでいいんでしょうか、小倉藩って断り書きされていたのであれ、と思ったんですがあくまでも細川忠興氏とその息子さんが小倉藩、という認識でいいのかな。
久留米藩とはその時点ではくっ付いていたのかなぁ、そうすると30石は越えてるけど分藩するとその他扱いみたいなだいぶややこしいことになるんですが、ただでさえなんだか面倒なのに、しかも土地を移転してたり藩が別れたりした理由も覚えられない。
小笠原家って、行儀作法の家とはまた別なのかな、嗣子なしで滅んでたし。
それとあと、さらに島津家の鹿児島藩がありまして、この辺とあと便宜上一時的に作られていたという沖縄藩がほぼ現在の県名なのでずいぶん多いなぁ、という実感。
あんまり土地を分割しなかったせいでしょうか、しかしやっぱり理由がわからない。
ぼんやりと読みながら黒田と細川が仲悪かったって本当かなぁ、と考えていたんですがお互い忙しくてそこまで拘っていられなさそうな印象になっているというか。
黒田家が要するに外様の大藩で、細川家も外様ではあるものの、これってひょっとして黒田家の押さえじゃないのかね、みたいな微妙な印象。押さえって親藩や、少なくとも譜代でその時はぐるぐる藩主の家を入れ替えてるのになぁ。
が、よく考えたら細川さんもぐるぐるしてるわ、ただし全部近所だけど。
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