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雑記:とうらぶその他、44

Last-modified: 2016-05-19 (木) 00:59:18

雑記:とうらぶその他、44

3月19日めも。

『あなたの知らない宮城県の歴史』歴史新書の読了ですん、えーと、あと水戸…水戸って今何県だっけ(待って私思い出して)、あ、あれです、茨城県も借りて来ているのですが大変申し訳ありません、燭台切さんがいたところだよ!!
いや、別にこれ読んだからってなんにも載ってないけどねー、そうでなくて別の資料読む時とかに少しは筋が通るようになるかなー、みたいなの。
 
かつて陸奥国で、この辺に多賀城があったんだよねー、と言われていたので、多分それが回りまわって仙台になったんだろうなぁ、とか、大崎氏が一旦領土を移して統治していた時期の名残が「大崎」って土地と東北とのつながりなのかもしれないなぁ、とか。
奥州藤原氏がどこの時代で逃げたんだよね、などとか、鎌倉時代も室町時代も微妙に遠い土地として治まってるようなそこまで荒れてないような。
で、完全に土地に無関係のものとして伊達政宗さんが登場、じゃじゃじゃーん♪
みたいな感じだったんですが、なんかそれ以降上手くいったらしいです、進軍が派手すぎて怒られたり、参勤交代がめっさ派手なんだけど、あんまりにも有名すぎてどうしても削れなかったり。
まあうん、国内に一万石クラスの家臣をうようよと抱え、ほとんど集権政治が行われず、幕末には奥羽列藩同盟の事実上の提唱者として厳しく処罰され。
てはいるんだけど、なんかなんとなく上手くいってますな?
有徳の藩主がいるってわけでもないし、有力な家臣がやたらと多いとか、結構フラグ立ってるような気もするんだけどなぁ、あんまり意思はっきりしてないし。
結果オーライなんじゃないでしょうか、なんか平穏無事だよな。

3月20日めも。

『日本の美術21 飛鳥・白鳳彫刻』の読了ですにゃん、彫刻の本の2冊めでーすーよー、あと何冊あるのかはあんまりきちんと振り返りたくないです。
というか、さすがにこれは1冊ずつきちんとレビューを書いていかないとどう考えても完全に頭の中で混ざるので、次から次へと読む、みたいなことが出来ないんだよね。
他に一緒に大量の新書を持ってきているのですが、そちらを先に読み終わったら嫌だなぁ、みたいに考えていたものの、それだとなんにも先に進まなくなるのでもう拘らない、期日までに読み終わらなかったら読み終わらないでなんとか考えよう。
でもまあ、まだ残り2冊のレビューが残ってるけど、それは後回しにしてこっちの続きを読むことを優先するか、その程度の調整はねぇ、さすがに。 
 
前に読んだ「天平彫刻」よりも前の時代がこの「飛鳥・白鳳彫刻」で、飛鳥ってのは時代がわかりやすくするために付けられた便宜的なものらしいですね、彫刻のジャンルの人たちは白鳳彫刻って呼ぶんだって。
で、この白鳳ってのがなにかっていうと元号らしいです。
記録には残ってるから別に架空ではないものの、いつからいつだったのかさっぱりわからんよ、みたいなものらしいです。
よく考えたら記録ないから本当にこの時代のものかわからんけど! みたいな彫刻が多いこの分類にはぴったりな名前だという気もします、私こう、とても芸術的感性が乏しいので芸術的パッションとか尻込みする体質ではあるんですが。
このひだが違う、この耳はさすがに違うよな、体格も違うよ、みたいなパッションはとてもありがたかったです、その後分析はお進みになりましたでしょうか。

3月21日めも。

とりあえず数珠丸さん来ました、多分180回とちょっとです。
いやあれ、キャラ変えながら10回ずつ【鍛刀】していたんですが、微妙に間違えたり初期の頃に別のレシピ回してたりしてまして、17人と三日月さんに20回お願いしたことだけは間違いないんですけどもあとが正確ではないというか。
記録は残しているので数えれば多分わかるんですけども、正確である必要がない。
結局なんかレベリング最中だった【後藤藤四郎】レベル40で引けました。
変数が偏るとかいうツイートがついったで流れてまして、骨喰が続いたあとに厚や平野が出たらそこで【富士札】を使うといいよ、みたいなことがあったんで実行。来ました。
ここで来なかったらば5月のイベントがあるよ、というアナウンスがされていたし、資材的にはそこまで重くない【100/100/100/100】を選択してはいたものの、ちょっとねー、100時間限定ってのもあってさすがに焦ってたかしら…。
富士札は今回3枚使った感じです、なんかのイベントで貰った分ですけどね。
えーと、今立ち上げて依頼札が541枚、手伝い札が1859枚。
一番少ない木炭が6800くらい、一番多い玉鋼が8300くらい。
しばらくほとんど【刀装】を作っていなかったので、これを回復させるために資材がいるよなー、みたいなことは考えているものの、別に焦ることもないので、ないので、なにしようか…。まずあれかな刀装作るかな。
 
なんかこう、一時期溜まりに溜まった軽歩兵の金でずっと【6-2】にだけ出陣していたのですが、軽騎兵を作って【5-3】にも出陣しないと太刀が育たないし。
とりあえず刀装作るかな…だるるんです。

3月22日めも。

『あなたの知らない細川家の歴史』歴史新書の読了ですねん、なにを読みたかったのかというと一言で室町幕府の管領の細川家って確か空中分解していたような気がするんだけど、ほぼそのあとくらいの時代にいる細川忠興等々(これが2代目だっけ、あの辺り誰がどの人だかわからないので見たまましか触れないよ!!)の方が一体何者じゃ、みたいな観点で読んでみたんですが。
とりあえず、三好家の本で阿波と管領の家に分離してたのは見たんですよ、いえ、細川家が。管領の京兆家ってのが主筋だったんだっけ、いや、阿波の細川家だっけか三好の主筋…、まあそんなこんなで細川家はこの二派で争ってたらしいんですが。
そこともさらに違う、和泉上守護代だったか、そんな感じの家らしいです、細川忠興さんとかの家。
毎度曖昧な言い方ですみません、とりあえず阿波でも京都でもない、だけは大丈夫です、5分くらい系譜図と睨み合いすることになったけど。
なんかこの家を見出したのは織田さんとこだったらしいんだけど、ああ、それでちょいちょい名前が出てくるのかなぁ。
なんか文化方面で出てくるのが多いんですけどね、やたらと。
で、よく見たら和泉…となったんですよ、あれ、守護代?
この人が現代刀である「和泉守兼定」の刀を愛好していたような、気がするんだけど、守護代は実際に土地にいて、○○守は名前だけなんですが、この人がそれこそ刀工の○○守の最初と言われているとなると、あれ、偶然なんだろうかこれ。
 
どこかで触れられててもいいように思うので探してみます、へー。

3月23日めも。

『日本の美術10 肖像彫刻』の読了、これ、すごく大雑把に言うと実在の人物の彫像(彫刻以外も普通に含まれてるよね? なんで彫刻ってまとめて呼ぶのかは正直よくわからないけど)なんですが。
んー、その歴史とかそういうのはとりあえず別のところで触れたので略すとして、要するに崇拝の対象であるらしい、ということ、仏像に近い性質のものが多い、その終わりの時代として触れられていたのが豊臣棄丸(豊臣秀吉の夭逝した息子の名前、変わった名前なのはむしろ死なないで欲しいって意味ですね…駄目だったぽいけど)像なんですが、これを人形化がすでに始まっている、と表現していたのが印象的。
あー、なるほど、人形ってそういや結構時代が下る印象なんですが、仏教彫刻の中から現れたと考えると納得出来ないでもないかも。
てことは逆に、だいたい江戸時代くらいに人形が現れたって認識していいのかしら、まあさすがに江戸に人形があったことはもともと知ってるけどね!
 
あと結構これ、名僧なんかが多かったんですが、それぞれがどういう文脈で作られていたかなんて触れられていたら面白かったかもなぁ。
んにゃ、この手の本で触れるのは大変だと思うので、あくまで寺単位の本とかでそういうの言及されてるところがあったら読んでみたいな、という感じなんですけどね。
東大寺関係の僧侶が東大寺にあるなら別に不思議もないけど、別にそうと限ったわけでもないみたいだからなぁ。どこの宗派だと作ることが多かったみたいな分布があるならあるで分析読みたかったですね。
ただ、読みたいは読みたいけど、研究が大変で目的わからないから微妙かww

3月24日めも。

『豊臣秀次-「殺生関白」の悲劇』の読了ですよー、そういや、切腹のシーン出てきましたよー、なんかあれ、平野藤四郎説だとか薬研藤四郎説とかあるらしいんですが(こないだ流れて来てびっくりしました)、ここの本では【厚藤四郎】でした。
なんか一人めが厚、二人目が鎬藤四郎、で、三人目が正宗だったかな、そんな感じ。
ぶっちゃけこれ、どっちが正しいとか間違ってるとかそういうことが重要なのではなく、事実じゃない説以外は「なんでそういうことになったの」というのが重要なんじゃないかと思うのですが今の時点で保留。
薬研藤四郎が登場したってことは、秀次のほうの擁護の意味合いがあると思うんだけどね、どうもこう、ちょっと読み方がわからない。
(正面切って擁護することが出来なかったとは言われているものの、ぶっちゃけ豊臣政権以降、秀吉が死んだあとは平気だったんじゃないかっていう気もするしなぁ、そういう意味だとほとんど数年くらいしかないよね。)
(んにゃ、実際に秀次と関わってた人らは口噤んでたらしいけどね、そこはそれ。)
 
あと、この本でだいたいの経歴とか出生とか、関白になる以前はわりとわかったんですが晩年近くになるとなんか微妙でいまいちわからない。
文献がない、と著者さんが明言してらしたんで仕方ないのよ、仕方ないんだけど歴史書以外にも当たれるものがあるじゃない、と私なんかだとどうしても思ってしまうんですよね、が、よく考えたら2002年だとまだ難しいんだよなぁ。
最新研究が盛り込まれた本、「歴史新書」辺りで出ないですかね。
ていうか刀の方面の人にその辺分析して欲しい気がするよ真面目に。

3月25日めも。

『日本の美術40 鎌倉彫刻』読了ですん、ていうかまあざっくり運慶・快慶の時代です、終わり、というわけには行かないんですが、さすがにこの時代に関してはかなり読んでいるので新味みたいなものはないかな。
あと、この時代以降どうにも仏像が小型化するので等身大以上だと古い可能性が高いよん、などということが言われていたんですが、それと中央の仏師が(院派、円派、慶派で主流派は打ち止めなのね)鎌倉と近畿を移動するついでなのか地方の仕事を結構受けるようにもなったよん、みたいなのが全体的な傾向。
これあれだよね、そもそも商人の流通などが一般的になったのも鎌倉時代だし、刀も確かそれに近いようなことがあったはずだし、大工仕事なんかははっきりこの時代って明言されてて、えーとあと、鋳物である鍋釜もこの時代に座が確認されてるんだっけ。
それと、この時代に限らないんじゃないかと思うんですが、金銀の像が減っていること、鉄像が出来ていることなんかも傾向になるのかなぁ。
多分ですけども、前から見てる限りでは、この時代の前後に日本の製鉄技術が向上したんじゃないかな、と思ってるんですけどもそういう意味だと合致してていいのかな。
 
てかねー、高めの精度の鉄による「鉄加工品」はあるしどうも作れるようなんですが、輸入していたみたいな節があるみたいなんだよね…。
それがこう、東大寺・興福寺の炎上によって製鉄技術ごと持ち込まれたんだとしたらいろんな辻褄が合っていいように思うんだけども、なかなかそう語られてるところがないので残念です。仏像の別の本では鍛冶・鋳物師が渡来人だとは触れてたんだけどね。
これより前の時代が触れられてる『藤原彫刻』に期待するか。

3月26日めも。

『日本の美術50 藤原彫刻』の読了、前に読んでいた本でどこかの段階で金銀の仏像が減ってきた、と聞いていたんですがこの本の時代、平安時代後期になるともう木材の分割利用だとか節約の意識が見える、と聞いてちょっと寂しい気分に。
とはいえ、定朝という人物から日本の仏師の系譜が始まったと認識していいのかな?
この人には師匠の記録が全くないらしいんですが、これ以前にもちょくちょく名前が残っているらしいんですが(この場合は偶然というか、作業中の落書きに近い記録の一種)、そことの違いというかどのような流れとして考えればいいのかなぁ。
これ以前の場合は渡来人だった? と捉えても良いのかなぁ、渡来人ってもわりと日本に渡って来て何代もみたいな人たちも普通にいるしね。
あくまでも自意識みたいなところの違いってことでいいのかしら。
(現代の感覚だとなんかわかりにくいところはあるんだけどね、渡来人のほうが価値があるとされた分野もいくらでもあるだろうし、国産で一から教育を受けた、というところにだから逆に価値を置くこともあるのかもね。)
 
で、ちまちまと見ていたんですがやっぱり金属の仏像全然ないのね。
あるいはこの時代にも作られていたのかもしれないんですが、いわゆる定朝様式には合わないってことなのかなぁ。漆なんてのも高いからか少なくなっているらしい。
ていうか、それ以前に関しては寺に専属の仏師だったのに、これよりもあとになると仏師が独立し、地位が低くなっているようにも見えるけれども自活して生活していたのではないか、とも語られていたんだっけかな。
これ、仏師以外との交流どんなもんだったんだろうね、そういう研究あるかな?

3月27日めも。

『もっと知りたい宮城県の歴史』歴史新書の読了ですよー、とりあえず伊達氏っていうか伊達政宗氏を主な目的として借りて来てみたんですがあくまでも地域の本なので抜けてるし、他に有名人らしい有名人がいないというか、交通の要所だよな? みたいな気持ちになりました、伊達家がわりとこう藩内分割統治みたいな状況になって統一意思がなかった、でもそこまで揉めたりもしなかった、というのは聞いてるから、江戸時代やそれ以降に地味なのはそれとして。
あとあれ、奥羽列藩同盟の責任を取って幕末に解体みたいな目に遭っていたのも理由としてあると思うけどねー。
(実際伊達家ってどうなったんだろうね、正直近代史で見覚えはない。)
(こないだ子牛と刀の話をしていて、伊達家から皇室に献上されたはずの【鶴丸国永】だけが時期が違うみたいなんだよね、その辺なんでかは知らんけども、そういや関係ないけど他に遅れていたのが【鶯丸】なのでちょっとびっくりしたよ。)
 
あとあれ、塩竃神社が「奥羽一宮」って言われてたんですが、奥羽ってどこだw というのが今地味にわかりません、陸奥のことでいいのかなww
よく考えたら奥羽列藩同盟とも聞いてるのになぁ、いまいちまだ弱いね。
この窯とか釜(現地では塩釜とも書くらしいよ)などと付いてる神社って地域の資料読んでるとたまに出てくるんですが、微妙にどれも小さいんだよね、あと、どうも鬼門封じに使われてるんじゃなかって気がするんだけどどうかな。
それが尊重されている一宮のはずなのに社格がない、というのと合致するのかなぁ、備中とか備前辺りに元ネタがあると思うんだけど、今後見付かるかしら…。

3月28日めも。

『日本の美術70 鎌倉彫』の読了ですねん、あと残すは彫刻1冊(この雑誌のこの近辺に存在していた分はね、あと、図書館にないものは把握してません! 一応時代的には綺麗に埋まってると思うんだけど)、と、今回は「石造美術」を借りてないんですが今後機会があったら読んでみたいです。
まあうん、そこの図書館から離れてしまったんでこう、なかなか難しいんだけども。
で、この鎌倉ってのは鎌倉彫として一系統はある、確かにある、だがこの鎌倉というのが時代なような地名なようなあるいは両方なのかとかがはっきりしない、というか要するに工業美術の一環で、ただしどうも仏師から現れたと言われているみたいな感じの伝承はあるんだよ、という感じの。
正直ちょくちょく博物館行く人だとどこのなにかとか認識せずに、どこそこの家伝来ってことだけで見てるような気もします。
工業美術にしてはね、かなりまとまった数残ってるとも思うんですが、だが事実上どこの誰が作ったかなんてことは本当に偶然でないと残っていない。
伝承に限らず仏師が携わっていたことや、実際に現代に近いような時代にもその手の記録はあるようなので、まあ、研究の進めようそのものはあると思うんですが、果たしてそういう需要があるのかどうかは微妙かな!
 
もとの伝承としては東大寺・興福寺の復興に関して貢献があった中国の商人・陳和卿が、運慶の三代目である康円と共に作り上げたんだよん的な、絶対的に時間的に不可能ではないけどもどうなんだ、と言われてましたどうなんだろうね。
とはいえ全体的にこの辺の流れはやっぱり鎌倉時代なんだな、と一収穫。

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