雑記:とうらぶその他、46 †
4月8日めも。 †
『奈良市史』通史1の読了ですん、とりあえずなんで他県の市史が横浜市図書館に?! というのが不思議なんですが、どういう趣旨なんだろうね、場所が結構あるみたいな認識でいいのかなぁ、東京都内だとかなりばしばし消えてたからなぁ、蔵書。
読んだのは興福寺の資料として出されていたのがこの通史だったからなのですが主に、通史1の段階では作られたかどうかといったところだったので違うかなぁ。
えーと、読みたいのは主にこの地域の事実上の代表者をやっていたみたいな部分ですね、寺の歴史からのアプローチだと読みづらいっていうか、政治絡みだとばちばち出てくるけど仏教の歴史だと出てこないんだよここの寺! みたいな意味です。
いや触れられてないわけではないんだけども特筆されてないんだ、寺の歴史じゃないところだと結構なエンカウントです、わりとろくでもない話でちょいちょい見ますとも。
(ただ、完全アウトみたいなことは一回もやってないから、そこまで変なイメージもないのかもねー、興福寺、ただし東大寺に寄進された土地絡みで喧嘩売ってたのは時代単位でトピックとしてよく触れられてるけど、日本で一番権威ある寺が東大寺なので、なんだ、さすがにちょっとすごいなww)
一応藤原氏が平城京の外京部分に三条七坊という土地を確保し、そこに作った中で一番メインとなるのが興福寺ってことでいいのかな。
もともと私邸を改造した山階寺が元になったとか、ああ、それで場所よくわからないのか、あと寺がちまちまと増えてく歴史などももちろん触れられていたんですが、どっちかというとこの巻特に、これただの日本の歴史だよね? みたいな内容でした。
直接じゃないけど間接的にマジで関わってるから仕方ないのかな(*´∀`*)ははは
4月9日めも。 †
『桶狭間の戦い-信長の決断・義元の誤算』歴史新書y008の読了ですん、うん、まあ、うん、そうねぇ…、みたいな風情です、今のところ。
ただ正規のレビューを書いていて、評価すべき部分はあったよね? となったのが、資料批判に対してでしょうか、いつどこで、どういう人が書き、どのように広がったのかということをかなり詳しく興味を持って扱ってくれる著者さんではあったんだよね。
が、それが「最近」にまで至り、かなり感情的にいちいち細かい言い回し単位で罵倒しているのを見るとさすがにこう。
かなり性格に癖のある人だなぁ、という気分にしかならないんだよね。
あと正直、批判されてるのもっともじゃ、という気分になったことすらあったよww
すごく大雑把に江戸時代の初中期くらいに刊行された小説が一般的に歴史資料として扱われていること、確かに元ネタが散逸しているのならばともかく、元ネタが存在しているのならばそっちに当たるのが常識だろって言われたらそりゃそうなるよなぁ。
著者さんが扱うまでほとんどそうされていなかった、というのもわりとわからんでもないです、結構ちょくちょくそういうケース見掛けるんで。
で、さらに陸軍が作った「歴史書」でも新事実が出てくるとなったらねぇ、それが一般的に流布してたらがーがー怒る気持ちまではわからないでもないんだけどねー。
しかし、織田信長人気はあくまで現代になってからであって、過去取り上げられたことはなかった! という言及を最近何度か読んでいたんですが、少なくとも歴史書として作り直されるくらいにピックアップされてた時期が二度もあり。
プチブームくらいその間にあったんじゃないかなぁ? そういう話だよねこれ。
4月10日めも。 †
『朝倉孝景-戦国大名朝倉氏の礎を築いた猛将』中世武士選書23の読了ですねん、まあ大変申し訳ないながら【一期一振】があったとされている家だから興味があった、というのが正直なところなんですが大変に申し訳ありません。
で、前書きの段階で興福寺が出てきていたので、どこかで関係あるのかなー、と思っていたんですが、そもそも興福寺が北陸の地に有力な荘園(この時代はこの呼称でいいのかなぁ、もとはそう呼ばれてたってところまではいいと思うんだけど)があり、その管理者として来たというのが最初なのかな。
数回別の人物を室町幕府が任官していたものの、朝倉氏と興福寺ともにガン無視し、地元で揉め事を起こしたとされた時点で朝倉…えーと、孝景さんが興福寺に詫び入れに来るまでの間に呪詛を施していたそうです、興福寺、どうなんだよ興福寺。
すごいしれっと記録に残っている時点でなにかが計り知れないよ。
領主たちからは不興を買っていた、と言われていたものの、任官されたのにガン無視された人たちほどではないように思います。任せられてるからこそ揉め事が起こるというか。
というかまあ、この興福寺が日本刀の粟田口派の関係って書かれている書物があるのですが、それだとわりと筋は通るのかなー、みたいな。
太刀って正直ご挨拶やお願いごとでちょいちょい出てくるよね、この時代も。
もともと専門の方ではないらしく、軍記物は扱いたくないぃぃ、と言ってらしたものの(気持ちわかるよ)、さすがに限界だったのか何箇所で出てましたが、相変わらず流れが整ってないな応仁の乱、説が三つも四つもあるんだもんなぁ、あれ。
北陸と興福寺がつながっていたってのがやっぱり一番の収穫かなぁ。
4月11日めも。 †
えーと、リアルタイムで5月18日です、さっき日付け越えたか。
とりあえずゲームに大きな動きがあったもののそれは置いといて、現在『フロイス日本史』の完訳本を読んでいます。
長いっていうか内容が酷い、昔読んだ『東方見聞録』を思い出しますが、この記録はもともとは日記で(初期の頃見ると他の可能性はほぼなさそう)、その後なにかの目的で継続記録になって結局出版されたってことかなぁ。
東方見聞録は講壇として語られていたらしいので、それでなんかこう、えらいこと下世話で同じネタが何度も何度も何度も何度も出てくるのでかなりうんざりしていたんですが、下ネタなんかはなさそうなんですが、ところどころ悪魔とか神のご加護とか、日本がどんなに遅れた国であるのかということが大量に出てきます…。
それがさ、初期の頃の迫害だけされてた時点では清廉なものでさ。
庇護や後ろ盾が出てきた辺りからどうにも様子が変になって、祭り一つ見ても悪態付くみたいな状態に付き合っています、こんな下賎なものに熱狂するのに正しく高貴なキリスト教に貴信しないとか、普通に恥ずかしい。
(そこまで馬鹿にされるような内容でもないよなぁ、祭りはどこも似てる。)
いや、その、今の貴方たち、ものすごく鼻持ちならない嫌な人間なので、教化しても多分信者なかなか増えないと思います。
知識で捻じ伏せる系のことしか上手く行かなくなってるので悪循環ぱねぇ。
とりあえず、変な詰まり方してますが、「そういう人の記録」と割り切って読みます、ここまで読んだ時点で嘘は一切付いてなさそう。変わりに悪魔の比喩がね、あるけど。
4月12日めも。 †
『奈良市史』通史2、の読了でし。
えーと、リアルタイムだと5月25日ですね、そろそろ原稿しないと、以下抜粋。
@ついった「畠山政長の生没年って始めて見た気がする「1442~1493年」。長禄2年(1458年)が元服かな、幼名は弥二郎、多分兄の弥三郎と話が混ざってる…。しかし養子になったの一世代前だった気がするんだけども、…いやまあいいか。弥三郎から書き方が同情的になってる」
というのはちょっと収穫でした、薬研くんの持ち主ですね、今度年表とつき合わせてみるつもりなんだけど、えっらい若い人やなぁこれ。
(兄が死去しちゃったせいもあるんだけどね、元服前から歴史の表舞台にいる。)
元服が16歳時点なので、ううん、若い。
この人の偏諱を与えられる前の名前がいくら調べてもわからなかったんですが、結局あれか、元服時点で足利義政(8代)から偏諱貰ってたんでそもそも偏諱じゃない名前ってのが存在しないのね、三管領なのでそのつもりで見ておくべきでした。
が、こんなに若いって知らなかったんだもん!!
尾張守をしていた宗家の弟の家からの養子らしいのでもともと畠山家の出。
兄の弥三郎じゃなくてその先代が養子になっていたように思うんだけど、なんかの間違いかなぁ、毎回家系図おかしくてわからんのだよね。
てか、なんでそんなことが奈良市史通史2で初めてわかるのよー。
参考資料ないか参考資料!! と思ったんですが、ガチ専門家を呼んだらしいんで多分誰かの手持ち知識だな、畠山系の資料でも読もうかなぁ。
4月13日めも。 †
前日からの引き続きで『奈良市史』通史2でございまする。
ていうか明日返却しなきゃならないから全部で6冊登録しなきゃならないのになんで1冊めで止まってるんだろうか、とうらぶで大阪城に潜ってるってのもあるにはあるんですけども、いやそんなことはどうでもいいんだ。
(現在リアルタイム5月26日、大阪城にはラストアタックです、今回は40階ぽいぽい、いやそれはいいんだ。)
以下奈良市史を読みながらぽちぽち呟いてたついったから抜粋。
@ついった:「興福寺と春日社が一体化していたというのはよく聞くものの、強訴に自分とこの神木使わせないとか神宮まともに作らないとか、祭りに立ち入らせないとか、意外と地味に抵抗されてた。ていうか東大寺と八幡神社みたくになりたかったらしい興福寺、無理だろ」
「興福寺が春日社の支配をした体制です。荘園管理とかそういう腕っ節がいることは任せてたらしいけど、政府高官と揉めたとかだと手を引かれてたというか、神木を引きずり出して「強訴」ってどういう意味なんじゃ一体」
「ももまーん、なんか強訴で神木動かしてる間は藤原氏が出仕NGになるんだと(やった場合は藤原から放氏されて地位を失うぽいぽい)。サボタージュに巻き込むみたいな感じかな…? 他の寺の僧兵が邪魔しに来ることもあったらしいけど…どういう意味だろこれも」
まあざっくり興福寺関係の内容なのですがこの寺は本当にやんちゃっていうかなんというか、とにかく東大寺にもなんでも喧嘩売るのでびっくりするのですが。続く。
4月14日めも。 †
前日分雑記からの続き。
大雑把に友人に「強訴って一般常識かなぁ? 違うかなぁ?」みたいな話を振っていたので途中で名前を呼んでいたりするのですが、とりあえず寺の要求が受け入れられない時には神社に奉納してある神木が手続き上必要となるらしく。
興福寺は貸して欲しいなぁ、という態度だったんですが初期は春日社から振られ。
(なんで春日社限定なのかというともともと藤原氏の庇護下にある二卵性双生児みたいな関係だからですね、どっかで一体化してらしいとは聞いてました。)
その辺の歴史がそれなりの長さで語られていたんですが東大寺がどんなに八幡神社と仲が良かったのかとか書いてあったりしてのでどういう意味ww と笑ったりしてました、どうも神社と寺院が協力すると祭りの幅とかいろいろ広がるっぽいよねこれ。
えーと、この時点までで興福寺の説明をすっ飛ばしてますが、まあ大雑把に奈良の事実上の支配者とされていたお寺さんです。
前に松永秀久が大和国の支配をしていたと聞いていたので、興福寺から奪ったのかな? と思っていたんですが、行政事務との棲み分けみたいな状態になっていたっぽいね、松永氏以前にも目立つところで越智氏とか古市氏とか出てましたが。
そもそも平城京が主に藤原氏によって作られた時点で都の外に作られた「外京」と呼ばれる地域があり、そこに作られたのが藤原不比等が自宅を改装していたという山階寺を元にしたという興福寺で、都の中にあったのは東大寺オンリー。
この興福寺が結局東大寺以外の奈良の寺を全部傘下に収めたみたいな歴史もちょっと語られてましたが、どうも経済力の違いらしいよ世知辛いね、続く!!
4月15日めも。 †
で、東大寺ってのはさすがに日本の寺の親分というか、聖武天皇の筋金で作ったと言われてる大仏を安置するためのお寺さんで、まあ、さすがに興福寺もここには手を伸ばせなかったらしいんですが、みたいなところが前提。
ただし荘園なんかの単位だとだいぶがりごり削ってるし相手の土地に侵入するし。
いい加減にしろよー、と何度も東大寺さんから訴えられていたようです。
そうして奈良にある七つの大寺(東大寺除く)を支配下に置き、続いて春日社を手に入れようとしたところで拒絶され、なんかちょっと大人しくなった気がするんだけどね、まあ、今度はきちんと頑張って貢いでいたら経営なんかは任せてくれるようになったんだけどねー、いまだに一部のお祭りとか立ち入り禁止っぽい。
だんだんなんの話をしているのかわからなくなって来ましたが。
なんか東大寺の記録と興福寺の記録って混ざるんだけど、春日社は経済関係だとほとんど出てこない、が対外的なことだとちょいちょい名前を見る、みたいなの。
前から感じてたんですが、だいたい理屈は理解出来たように思います。
春日社興福寺と書いても逆はなかったそうなので。
経営だけは任せてくれても尻に敷かれてたんだな!! と読んだんですけどね、なぜかこの結論によって興福寺の好感度がアップするのが不思議だよね。
そもそも他の寺を末寺にしたというのも、寺院のパトロンが消えつつある時代の変遷である程度仕方のないことだったのではないかと思えるのですが。
支配欲が駄々漏れでも一応きちんと世話してたって言えるわけだしなぁ。
ただ時々燃えてるんだけども興福寺、一回確実に揉め事による放火でした。ああうん。
4月16日めも。 †
なんの話か忘れ掛けてますが興福寺の話引き続き。
(4月13日からだらだらと続いているところです、奈良市史の通史2が元ではあるんだけど、これを読んでやっと納得したみたいな今までの話もしてる。)
そもそもこの興福寺を調べ始めたのは日本刀の粟田口派がこの関係である、と書かれた本があるらしいからなのですが(まだその原文は読んでないのです、何回か触れられてる本は読んでるんだけどね、だいたい著者さんは同じなんだよなぁ)。
多分なのですがその詳細について詳しく書いてないから特に拘る必要がないと思われたんじゃないのかなぁ、この時代によくわからん記述一杯あるしね。
ただ、鎌倉時代の少し前「東大寺と興福寺の炎上」という事件があったことを考え、その直後に現れた粟田口派ということを考え。
普通に考えてこういう偽証しないんじゃないかなー、と…。
あと、興福寺関係者はかなり数が多いので、どこでどう記録に残ってなくてもあんまり違和感ないんだよね、今まで読んでる中でところどころで職人抱えてるらしい記述があるしね、東大寺だとはっきり残ってて確定なんだけど。
やっぱりなんかそこも混ざってるんだよね、どういう管理してるのか…。
あ、そういや東大寺の門の名前である「手掻派(てがい)」ってのが大和伝にいるのですが、この土地で展開していた職人も興福寺関係みたいです。
どうなんだろう、刀工がどうの、ということでは触れられてなかったものの、もともとご近所さんだし土地勘が全くないのでどう捉えていいかわからないw
ただ実際その辺りに市があったよん、みたいな言い方してたからなぁ、難しい。
4月17日めも。 †
13日分の雑記より引き続き(よく考えたら奈良市史の通史2だともう一日前からか)、で、さすがに長いし、ページが切り替わるのでここで切り上げるのですが。
ここまでざーっと調べて、技術の本流はここじゃないな、という結論が。
確かに興福寺はかなりスケールが大きく、地域の支配者たる特別な存在ではあるために技術者の受け皿の部分はあるものの、これで説明出来るのは「鎌倉時代に市が作られたのは大炎上した寺院内の施設の建設資金を稼ぐため」みたいなわりと外側の部分であって、そこに受け入れられた技術者たちそのものではないんだよね。
あと、どうも荘園制をある程度でも理解出来ないと限界が。
とりあえずちょいちょい話に出てくる河内のはぐれ鋳物師に関してと、貨幣の鋳造に関しての本でも読んでくるかなぁ。
仏像に関しては古い本で概要くらいは掴めたと思うので、その後の展開みたいなものも少しずつでもいいから読めていけたらいいんだけどね。
興福寺興福寺って呼んでるんですけども、当然一枚岩ではなく、その主張をする集団の中に庶民、というよりいわゆる檀家に近い存在かな? 六万人衆などという存在があって、これが口を開くとどうにも勢いがあるすぎるみたいなことに。
その辺の構造についてもいまいちわかってないしねー、なにしろ現世利益を求める系統の鎌倉新仏教より先なんだよこの寺、なんで庶民と結び付くのww
(庶民というか奈良の町人って考えたほうがいいの?)
が、結局のところどう足掻いても多重構造なのでどうにもわかりづらいって本の中でも言われてましたね、これ以上どうすっかなぁ…面白かったけどね!!
Tag: とうらぶ雑記
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