雑記:とうらぶその他、61 †
10月10日めも。 †
『戦国の交渉人-外交僧・安国寺恵瓊の知られざる生涯』歴史新書y020の読了ですねん、リアルタイムで9月30日、冷蔵庫の食材をどうするのかわりとずっと考え込んでいます、あとシーツとパソコンもあるんだ、一旦荷物作って総量を把握しないと…。
それとあれ、図書館に本を返すので、それも黙々と読んでいる感じでこれを書いているのもその一環です、しかし、なんか寝ても寝ても眠いなぁ。
同じようなこと言ってる人もぽちぽち見るので気候の事情だと思うのですが。
んで、大雑把に毛利家に仕えた…というわけでもないのかな? ずっと毛利家のために働いて来た「各国を行き来することが出来る」という僧侶の地位を利用した交渉人のような人物で、これは似たような人物がぽちぽちと見えるものの確定した地位として存在しているわけでもないし、この本を見ている限りでは一時的に交渉に付く人の中に特に僧侶じゃない人たちもいるような感じだよね。
黒田…下の名前なんだっけ、まあ官兵衛で知られた人なんかと一緒に動いてたことも。
というか、前に織田家の家臣団の本を読んでいる時には馬廻り衆とか小姓が似たような動き方をしていたような記憶だなぁ、こちらはどちらかというと対外交渉というよりは家の内部の話で動いていたので、合わせて考えても辻褄合ってるのかも。
毛利家の生き残り交渉を豊臣秀吉に対して行い、かなり毛利家に厳しいことを言い、その後、関ヶ原の合戦にて三人の主犯格として処刑されたうちの一人だったそうなので、まあ、あの、評価が不当だということは重々承知ながらなんで嫌われたかもわかる気が…しないでもないな…、でも毛利家以外で生き残れなかった家あるしなぁぁ。
てかこの著者さん、地味なテーマのほうが面白いんじゃなかろうか、圧倒的に。
10月11日めも。 †
『江戸の養生所』の読了でーす、なんかどっかで見たことあるような気がしていたんですが本当に見たことありました、八重の桜(大河)の頃に何度か本を見たことあったんだな、というか大河よりも前に出していた方です。
つまりもともと隅っこが好きなんだと思うどう考えても、どう考えても。
で、なんか今回調べてみたらいかにもやばそうな感じの地雷系タイトルの本を出しておられまして、うんまあ多分、と思ってクリックしてレビューを読んでみたらやっぱり普通に大人しい感じの内容だったみたいです。
あんまり幸福ではなさそうなので編集さんは選んだほうがいいかもしれません。
売れるためのタイトルってのは仕方ないと思うんだよね、ただ、素人が若干尻込みしそうなのはどうかなと思うんだよね、本が少なくて名前だけは知ってるという辺りの時代で地雷系タイトルってのはいいと思うんだけど「関ヶ原」だと他にいくらでも本があるのでその売り方が賢いとは思えないです。
まあ、読んでた人も普通っぽい人だったので、他に読んだまともな本から辿ってったんだろうなって雰囲気だったし、意味がないよ意味が。
ではなく、まあ、暴れん坊将軍の時代なんですよ、大岡越前とかいるんですよ。
あれ自体はドラマだけど、別にこの時代に関しては名君扱いでいいんだよー、でそのまま推移してる感じの人です、名奉行だったのも事実らしいです逸話は他人のものとか作り話らしいけど、名奉行なのが重要なのでそれも別にいいです。
そしてこの本は徳川8代将軍吉宗の話ではなく、その時代に作られた小石川療養所なんですよ、ここもなんかドラマあるらしいけど、ここは駄目だったぽいぽい。
10月12日めも。 †
『鍛冶道具考-実験考古学ノート』神奈川大学日本常民文化叢書、この本のことをまとめようとして槌に関して(槌と狐に関係があるとか)を扱ってるのがこのあとに読んだ金属も含まれた伝説のほうだったか忘れてしまったんですが、まあ、どうにも思い出せないのでここで吐き出しておくことにします。
あれだよ、日本刀の小狐丸の伝説においてそもそも「相槌」というものがキーワードとなっているのがどうもいまいち意味がわからない。
狐と槌には関係があるからねぇ、みたいなことが言われてたんですが、もうちょっと詳しく! となったんですが、あれこれ、やっぱり伝説の本のほうだったかなぁ…。
大雑把に鍛冶道具を再現して、その前後の情報と突合せしよう、という面白い試みの本だったと思うんですが、あくまで技術屋さん視点だったのでサポートなどが目に見える形であると面白かったように思うんですが。
神奈川大学が関わってるところを見るとなんかしらの展開はあったとは思うんですけどもね。
あれやっぱり、槌の話こっちの本だったかなぁ、この小狐丸(刀に付けられた名前なのですが)には日本刀の起源であるみたいな話がくっ付いてるんですが、これ以前にも刀があるのでどうもいまいちニュアンスがわからない。
湾刀っていう反りはこの時点ではないっぽいんだよね。
民間刀鍛冶の最初の一人なのかなー、なんらかの最初なのかもしれない、狐ってそもそもなに、天狐が槌ってどういう意味かとか、いろいろ気になることはありました、そして今もわからない、狐に関して調べてくくらいの勢いが必要なのかな…全部語ってって。
10月13日めも。 †
『中世を読み解く-古文書入門』の読了なのです、まああれ、今はまだ研究者の方っていうか専門家の方に主に頼ってればいいんですけども応仁の乱なんかに時代が近い民間伝承みたいな文書が出てきたらそっちは自力で多分…読まないとならないっていうか「応仁記」も自分できちんと目を通さなきゃみたいなことを考えてるんですけども。
ただ禅宗の方たちの事情に関してはなんかもうちょっと補足してからで、先が長いっていうか、別に私は研究の最先端かもしれないところなんか走りたくないんですけども今の時点でどんぴしゃな方を発見出来てはいないので現実は直視しようかなとは思いますものの、なんだっけいや、まあ、この本の中に出てきた文書がどうこうということは特になかったです、というか多分これ、研究者を育てるためのテキストだよね多分。
という感じでわりとするするもごもごと食べてました、結論まで到達はしないものの、別に読んでて知識が極端に要求されるようなこともないしねー。
ないっていうか、特になにがどうとか近い時代が解説されてることもなかったのですけども、されてもそんなに重要なわけでもなかったしいいんじゃないかな…。
で、要するにこの本を読んで素人で専門家頼みたる私が一番感じ取ることはこんな中からなんかしらの意味があるものが紛れててそれがなんかしらの他の文書の内容と合致することはないのだろうか的な研究するのって正直面倒だし。
私だってやりたくないしあんまり。
やって下さる人が少なめかもしれないという部分に関してはなるべく不満とかないようにしたいです、誰だってご飯食べないと生きてけないしそもそも。
あと古い本の記述が混乱しててもなるべく名指しはしないようにしようね…うん。
10月15日めも。 †
『金属・鬼・人柱その他-物質と技術のフォークロア』の読了なのです、あれです、とりあえず川が洪水起こしてるところに人間を沈めたからって洪水が収まるわけないだろ!! というのが人柱関係の主張だったので、だいたいの内容が想像出来るかなと思います、確かに言われてみればそんな気はする。
建物に人柱を埋めるのも隙間が出来るから全くお勧め出来ないってのも昔聞いたことがありますが、確かに、というか、埋めてる様子みたいなのもないって聞くよね。
(ただし建築関係では必ず事故死者が出るというのは現代でもわりと当然のこととして認識されており、全体の規模ならばだいたいこのくらい、と最初から弔問などの費用を試算していると聞いたことはあります。)
(で、その場合ならば工事現場に遺体をそのままにしてしまう、もしくはせざるを得ないということはあってもおかしくないとは思うので、まあ、その辺が伝説の源泉なのかなぁ、とはちょっとねー。)
で、この本で示されていたのは「沈められた母子の名前が同じ」「なぜか各地にその同じ、もしくはよく似た名前の母子の伝説がある」ということで、最初は話半分で聞いていたんですが、洪水を収めるための杭のことを指していたのではないかなー、と言われて半ば納得。
そしてそれを聞いているうちに薄ぼんやりと考えてしまったのは、逆に杭のことを擬人化した伝説が出回ってたのこれ? みたいなことだったんですが(*´∀`*)ははは
いやぁ、杭だとして、まるで母子みたいに組み合わさってるな、と思い沈められた伝説作る感性もそれはそれですごいよね、どうなんだろうww
10月14日めも。 †
『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』遺跡を学ぶ051の読了っす、あれですね、前に邪馬台国の側からこの纏向遺跡を取り上げた本を読んだことがあるのですが、そこでも結論としては同じ「ここにあった集落は軍事戦闘を主体にしてはいなかったのではないか」ということが語られていたのですが、そこからが分離しているというか。
えーと、その時点で読んだ本では「だから邪馬台国はそもそも巨大な軍事力を持っていたわけではなく、平和的な連合集団だったのではないか」という推測になり。
こちらの本では「だからこの遺跡は邪馬台国ではないのではないか」という論拠に。
なんか書いててもややこしくなって来てるんですが、論点としてはそんなにわかりにくくないよね。
つまり前者は纏向遺跡を資料の一つとして扱って邪馬台国の性質を導き出し。
後者は邪馬台国をまず軍事集団であるという前提を持って、その条件として当て嵌まらないからこの遺跡は違うのではないか、という展開をしているという。
で、ぶっちゃければ前者のほうが私は無難なのではないかなー、と若干。
というか両方ともそもそも基点となるべき確定した地点がなくて、自分の研究分野とは遠いほうに論拠を求めてる辺りが若干は難があるのかなぁ。
とはいえ、古代史に関してはある程度の仮説がないとどうにもこうにも進まないし。
要するに「纏向遺跡は祭事を中心とした集落だった」という部分に関しては概ねの確定だということだけを受け取って覚えておこうかなー、と思います。
あとあれ、卑弥呼を中心にし、男王では駄目だった邪馬台国に軍事国家の印象がいまいち薄いっていう程度のあれはありますね、好みっていうか感性っていうか。
10月16日めも。 †
『あなたの知らない法然と浄土宗』の読了なのです、えーと、あれですよね、浄土真宗のほうを先に読んでしまったんですがここの孫弟子かなんかのところからの派生だよね、で、確か鎌倉新仏教系ですよねこれ。
なんとなく日蓮さんのところの法華宗…じゃなくて日蓮宗でいいのか、日蓮宗も近い時代だったような気がして書き始めたんですが、今になって「日蓮宗」と書いた時点で、あ、あんまり時代近くないわ、となりました。
ぶっちゃけ鎌倉初期の仏教系列が個人名を名乗ってた気もしない、というか。
浄土宗や浄土真宗と同じ系統の呼び方だよね、法華宗。
日蓮宗の話が続きますが、鎌倉の危機の時代なので日蓮さんは鎌倉末だそうです。
鎌倉新仏教というのは民衆向けの現世利益を始めてもたらした、的なことを言われてる時期もあったそうですが、そうではなく、その前の時代からそういう変化があったんだよーん、という説明を聞いていたんですが。
よく考えてみたら教えという単位で接することになったのはこの時期が実際に始めてなんんじゃないのかなぁ、坊さんの範囲が広がってるというか。
この時期の僧侶に少なくとも国家公務員の趣ってほとんどないというか。
というか、権門寺社という一部の政治に関与する寺や神社があるんだって認識してたけどよくよく考えたらこれ逆なのかも、もともと国のものであった仏教や神道に関しての機能部分を継続していたのが権門寺社であって、これはのちのちまで公務員に近い。
で、だからクーデターなども時折起こすわけですが権力に近い。
ここの鎌倉新仏教と言われる集団にはそういう性質は全くないんだよね。
10月17日めも。 †
『祗園祭と戦国京都』の読了っす、とりあえず八坂神社がこの祇園祭…いやなんだっけ山鉾に関しては別なんだっけ、本の中でもそんな感じに触れられてましたが、現代で検索で引っ掛かってきてたのもそんな感じだったよね。
まああれです、八坂神社がどんな神社だかはよくわからないんだけどね。
権門寺社の中に含まれてることもなかったような気がするし、そもそもこの本の中では祇園祭に関して比叡山が先に祭りを行わなければならない的な事情でなんども開催を非難されていたみたいな感じだったしなぁ。
ただ、神社なんですよね、祇園祭の八坂神社。
比叡山の延暦寺ってまあ寺なんですよね、どういうつながりだったのここ。
それとも単純に祭事でのみつながっていたんだろうかとも思えないでもないんですが、私の知ってる神社と寺のペアリングって祭事に関しては神社主導だったしなぁ、ああいえ、実務は寺でしたが、詳細まではよくわからんけども。
そんなこともまあ、祇園祭に関してを見ればわかるんでしょうか、あと、現代もなんかしらのつながりがあるのかなぁ、そういうこともちょっとわからない。
とりあえず応仁の乱のあとでどうもこの祇園祭が混乱していたらしいんですが、為政者っていうか細川勝元、だったよな? まあ彼があれです、わりと庶民の祭りだからって開くの反対したかっていうと別にそんなことはないみたいな。
勝元だっけ違ったっけ、政元? と混乱していたんですが、勝元が父の政元が息子です、ドラ息子なのが政元です大変に申し訳ありませんでした。
資料は正確だと思うし時代の状況はわかるんだけど、意外と事情わかんないよな!!
10月18日めも。 †
『日本の美術465 山岳信仰の美術-熊野』の読了ですー、リアルタイムでは11月2日、かな? 明日のために夕食の買出しに出掛けないとそろそろまずいのですが。
ええとあれ、最近神社が「現在伝えられている祭神」を受け入れたのがもう完全に記録に残ってる時代であって、そんなに特に古いわけでもないということがぽちぽちわかってきたように思うんですが前に見たのは宇佐八幡宮で、ここで見ていたのは熊野三山で今の体制になる前は二つの山ということで主に認識されていたよー、という辺り。
正直なところ、朝廷から神を受け入れる前もあともいまいちぴんと来てないので、もうちょっと経験値が上がってくれるといいんだけどねぇ。
上古のことならともかく、古代、というか奈良時代だの平安時代だともうある程度は前後の政治事情があるってことだろうしなぁ、その時代に関しての基礎知識が足りてない状態で詳細不明とか言い出すのもさすがに…うん、まだだいぶ早いよね。
そもそも私、この本に出てきた「海の修験」と「山の修験」に関して、一体どのようなことを指しているのかというところから全くかけらほども想像出来ていないのですが、じきに海の修験が山の修験を吸収してしまった、とあるので、あるいは私の知ってる時代があとに寄ってるというせいもあるのかなぁ。
鎌倉時代がわりと文化メインというか、平安時代後期に関してを一般常識の一貫として知ってるという程度のことだし、ここで挙げられていた祭神を今のものとして本来二社が一つになっていたところを三山にしたのだ、というのも、えーと、永保ってあるから白河天皇の時代なのかこれ、で、それよりは前にしても平安時代っぽいねこれ。
いやあれか、修験道の影響ってことだと、平安後期に結構動いてるのかな…。
10月19日めも。 †
『頼朝と街道-鎌倉政権の東国支配』の読了っす、あれです、どっちかというと先鎌倉史みたいなところがメインなのかなこの本は。
で、個人的には「武蔵国府」の辺りに幕府の首都を置こうとしていたみたいなことを聞いておー、とちょっと感心。
あれなんだよね、あの近くにある大國魂神社の本殿が、鎌倉の方向を向いているらしいんですが(ケヤキ並木をその時にプレゼントしてたんだって、参道の脇に今もあるやつです、一部切ったので京王線が祟られたんだよん、と言われたやつ)、あの辺の意味がいまいちわからなかったけど、これと合わせるとわかるような気もしないでもない。
大國魂神社を北にして、先祖? 父だか祖父だかの時代に勧請した鶴岡八幡宮の近くに都市を作ったよー、ということだとそこそこ納得。
まあほら、武蔵国府の辺りに首都置くと、防御能力皆無だからね。仕方ないね。
平将門のことをそそのかした以外、ほとんど誰とも争ったことないよあの辺!!
(いわゆる多摩と言われてるような地域ですね、若干違うけど気にしない。)
まあ、武蔵国の本ではないんですが、鎌倉はやっぱり実利関係の中からそこそこいい感じの土地を探し出したっていう程度のことなんじゃないかなぁ、という雑感。
で、その後、京都との間をじっくりと東海道で往復しながらその間に宿場を置いていったんだよーん、などという話もされていました。
あれか、そういやくるくると回っていた関東の土地なんかもそこから鎌倉街道と呼ばれる道があったって聞くなぁ。結構合理的に作られてたのね。
ただ、そのことに関しての研究が思った以上に進んでないのねこれは…。
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