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雑記:とうらぶ・文アル他、101

Last-modified: 2018-05-22 (火) 00:14:55

雑記:とうらぶ・文アル他、101

11月24日めも。

そういや近藤さんて人がいまして、田端とか馬込の「文士村」とかプチ文士村である菊富士ホテルの本などを書いてるんですが(あと着物とか、なんだっけか、読んでもいいかも)、えーと、正確な世代は関東大震災の大正12年の時点で田端でしばらく避難生活してたんだよん、という感じみたい、その時点で幼児だったんだって。
なのでまあ、芥川なんかとは顔見知りなどではないものの、まあ普通に通り掛かることなんかはあったかもね、とのことでした。だろうね。
馬込に関しては田端の文士村のほうが芥川の死によって離散してしまい、その一部が流れていったのが馬込だったって意味で扱ってたのかな。
多分思い入れがあったのは犀星じゃないかなぁ。
犀星になんとなく変な「思い出」があるのは知ってたんだけど、どうも一年くらい芥川の死後幻覚見てたらしいです、あー、あれ、そうだったのか…。
これ、知ってる人は知ってるんじゃないかな、犀星自身も幻覚とそうでないものの境い目が曖昧らしくてちょっと曖昧な物言いしてるんだよな。
犀星の側だとべらべら喋るっていういつもの悪癖がなくて、なんかいい子で大人しいらしいので、時期わからなくなるのも無理もない気がする。
 
緊張して喋りまくってるのを好きな人の前の態度だと解釈しているのも見たことありますが、なんか、それは知らん人らの前でまずそうだったらしいですね…。
学生時代の友人なんかの前でも違うようなので、まあ、学生時代なんかは良かったんだろうけどねぇ、編集さんでも何人か駆け寄って来たことがとか言ってるよね(しかしその相手すら親しいとは言い切れない、なあおい)。

11月25日めも。

田端の近藤さんの話、下のお名前については割愛(この内容で検索に引っ掛かるのちょっとなぁ、なので)、あ、女性の方です、ぶっちゃけ性別って研究分野においてはそんなに重要でもないと思うんですけども、こと近代においては若干あるかなー、という気もしないでもない、鴎外さん近辺で「女性差別だ!!」って震えてる人って大抵男性なんだけど、女が見ると個別案件と思うんじゃないのかなぁ…みたいなの。
ただ、鴎外さんの研究は男性向けというかまあうん、かなりごついので、なんというかところによっては近代の虐殺事件とまで呼ばれてる、いやいやいや、これはさすがに本題でのみ語るべきだ脱線でやるもんじゃない。
なんというか加害者としての分析って女性で出来る人は今はまだ少ないかな、と思います、女性にいないとは言わないんだけど、教育がそうなってるからなぁ。
いずれこの辺も変わってくるのかもしれないんだけどね。
好きな人物が加害者としてカウントされているので周辺を調べねばならん!! みたいなケースは普通に女性にもあるかもな、開き直ると性別関係ないし。
 
いや、近藤さんが女性の奔放さに関して語っているところはわりと好きです。
なんという絶対悪!! とか言い出さないし。
男性の奔放さに対しての意見で時々でうーん、ともなるんだけど、男性の奔放さは許される女は絶対に許されないとかを頻繁に見てると「この程度なら可」となるしねー、相手が商売の女性なら話は別じゃないなら私も賛同よ。
近藤さんで気になるのはこの遊びは芸術のためなのに、わかってないな、という、女性とは関係ない部分かしら、谷崎と宇野千代なら同意するけど…あとは…ねぇ。

11月26日めも。

まああれ、菊富士ホテル、田端、馬込の文士村の本を3冊分読み終わりましたよ、という話、ちょっと踏み込んで調べてるところで「んー?」となることはないでもなかったものの、資料にしたのだろうところが軒並み記録がおかしかったので、あ、こりゃ仕方ないやという範囲に留まってました。
つーか社史、つーか社史(文藝春秋の)、あんたのとこのほうが近藤さんの本より頼りなかったわよ文章読んでて疑問持たないの?! と思わないでもないんだけど、まあ、ガチ関係者たちが書き残してるもんが元だとしょうがないんかなー。
 
菊富士ホテルというのは近藤さんの親類がやってたらしいんですが、なんか下宿に近いような長期の客を泊めていたら、いつの間にか文士の溜まり場になっていたのよねぇ、みたいなところらしいです。
これ、前後がよくわからなかったんですが、こないだ子牛に連れられて文京区の文学スタンプラリーに付いていったところ(文豪ストレイドッグスのスタンプラリーなんだけどね、なんでだろうねあれ本編違うよね? というのは気にしない気にしない)、文京区に東大がありまして、てことは一高も近くにあったはずで、いや移転したんだけどいつなんだか自信とかはないけどあったことはあったはずで、そこに菊富士ホテルがありました。
あと、博文館とかもあったんで、なんとなくわかりました。
同じ地域に秋声の家があり、漱石さんが『猫』を書いて一躍人気作家として認められた時期の家もあったので、ああ、ここだと木曜以外に来るな出てけ!! ともなるよなー、とめっちゃ納得しました、秋声の家も溜まり場だったって聞いたことあったんだけど、立地的に無理もないや、むしろよく平気だったよな感強い。

11月27日めも。

いやうん、文京区に関しての話はその時に地区の資料館みたいなところで見たんだけどね、他の地域でもこういうの設定してくれてるんでしょうか、だったら見てみたい気もするんだけど。
まあ文京区くらいいろいろ集まってないとちょっと厳しいところもあるのかしら。
(出版社、大学、プチ文士村とかさすがにそれなりの物だと思うわよ、それがわかりやすい内容になってなかったから知ってる人向けになってたのが惜しかった。)
 
で、本題は要するに文士村についてなんですが、これはどうもお金のない場合は雑居していたほうが安く上がるという理由で、比較的地価の安い土地に文士たちがまとまって暮らしている、という程度のもののようです。
田端が文士村の代表格とされているのはもうはっきりと「芥川がいるから」という以上のところはなかったみたいなんだけどねー。
文藝春秋が一時期移転したってこともなんとなくもにゃもにゃしてるからなぁ、どうも犀星が元の家を取り戻しに来たらしいので、若干の揉め事でもあったのかもしれないねー、犀星は作家に対してコンプレックス持ってたみたいなこと、自分でも言ってるし。
全体的にお金がない人たちの集団であって、それ自体はまあ文士という基本的にさして身分が高くない職業ということで無理もないんだけど、なんというかある時期から増えてった職業作家ともまた多少の世代のズレがあるのね…。
著者の近藤さんも含めて芸術のためっていう意識が強いのはわかるんだけど、バンドマンとグルーピーとしか、見えない、ごめんなさい、多少マシな音楽、もとい作品も生まれたかもしれないけどその自堕落生活直したほうが多分ずっと作品まともに…あの。

11月28日めも。

というか大衆文学の歴史みたいな本を見てきてしまったから余計に駄目なのかもしれないんだけど、あっちの世界にも嫉妬とかあるんだよね、あとコンスタントな収入と大抵の人に愛人がいることもあるよ、程度の比較的堅実な生活がありまして、特別に地位が近い人、それこそ純文学だと鴎外さんくらいしか到達していないようなレベルの人にしか許されない!! みたいな比較的穏当な生活が普通の作家たちにもありまして。
そうして作家たちが、今は我々の技術では確かに高いレベルへと至ってはいないが、いずれ少しずつ技術が上がっていけば大衆文学の中からも傑作が生まれうる、という意識を持つ人が「定期的に」出てきていて、なんだ、なんだ!!
 
文士村に目を戻すと任侠的なお兄ちゃんがいて、いや、彼は多少まともなんだけども男性器をお酒に浸してお互いに飲んで義兄弟だって盛り上がっていたんだ! とか馬込に来た人に一目散に逃げだされていたりとかいやすみませんそこから語るべきじゃなかったいくらなんでもそれとそれ比べるの酷かった一番まともな文士村関係のあれ、あれ、あれ、よくわからないんですけどもなんか方針とか指針とか理念とかあるのかな?
誰それが世に出た憎いー、あの家でなになにがあった言い振らせー、とかそういう感じでしか生きてる様子しか思い出せなくて。
のちに比較的まともな作家の手によって伝奇物の小説として仕上げられていたようです、馬込だろ当時から電車で行けるだろ、なんでそんなにも村根性がひどく成り果てた閉鎖地域みたいな展開が、と言われたら職業が同じで全員ライバルだから確かにわかるわ! としかならず、なんだろう、純文学ってこうじゃないとならないんですかね。
悲劇を馬鹿にするつもりはないんだけど、それ自業自得因果応報って言うよね…?

11月29日めも。

田端でばたばた、というかあれ、馬込は疲れ果てましたが田端の本ではそんなに疲れたってこともなかったです、普通の倫理観の売れない作家たちだったしあくまで。
素人女を同時並行で手を付けて全員ずるずると引きずって刺された挙句にその事件処理の間に新しい女に手を付けたりしなかったし、ちょっとでも金が多いところにたかり続けることが当然みたいな態度で感謝すらしないみたいなこともなかったし。
いや、あの、純文学書くのに本当にその生活って必要なのかな。
ぶっちゃけて女性に心底興味があって、女性を追い求めるために社会性を犠牲にしていた谷崎に関してだと、ろくでもないけど優れてるって認めるの苦痛でもないです。
あと、馬込にもっとも適応していたのは宇野千代さん、と言われると、彼女くらい燃え上がっては目移り、目移りしても元の男にはそこにいて欲しいのそのうち戻るから!! みたいな価値観だとこう、周囲が爛れ腐っててくれるほうがいいってのはわかる。
ただ、基本的には馬込はそこにいる人たちがだんだん疲弊して行き、ただの気のいい兄ちゃんであるところの尾崎士郎(馬込代表格)も、奔放な宇野千代と破綻し、というか真逆の家庭的な清子さんのところに逃げ込み。
 
彼女を連れて逃げ出したっていう、なんかこう、彼に関しては馬込に合うようで合わなかった人物として理解出来ないでもない、本気で相手のことを案じて手を差し伸べるタイプでもあるし、彼まではいい、たかられてる側だしなそもそも!
たかってる側は本当にまずいんじゃなかろうか、詩人たちはそれでもマシな風情なんだけど小説家たち、本当にそれでいいの、それこそが純文学って、大衆文学作家が表現論とか言ってる時代よいいの本当に?! 私にはもうわからないよ…。

11月30日めも。

田端でばったばたばた、なんというか菊富士ホテル、田端、馬込の順番で本を読んでいってまともな人が多かったというかほぼまともだったのが田端なのですが、田端に妙な女性食い散らかしバンドマンがいなかったかというと一人思い当たりました(いや若干、というかだいぶ結果が違うんだけども)、芥川が。
芥川をほいと摘み上げて菊富士ホテル(半分くらいまとも)、馬込(まともな人は逃げた)に置くと実はそこまで違和感がない、というか幾分マシ。
というかそもそも、女に突進していくはいくもののなにか難易度が高い相手に突進するような傾向があり、そもそもその女が好みでもなんでもないと友人に明言していたらしいことも少なくなく、近藤さんの本では「他人のものになるとちょっかいを掛ける」と言われていたものの、あるいはそうでない場合は難易度高そうな相手に突進している。
奥さんの親友とかも多分そうじゃないかなぁ、でもやっぱり清い関係でいましょうとか心中するのは止めましょうとか。
一個ずつだとなにこれ、だし、揃えてもなにしたいんだ、なんだけども、どうも相手がそれに靡いてくれることを願ってるとも思いにくい節がある。
 
というかそもそも芥川、人前でぱっつぱつになって喋りまくる癖あるよな、ご商売の女性の前でも似たようなことになるのでお座敷も早々に逃げてたよな…。
なんかこう書き連ねていくと、文士たるもの女遊びをしなきゃならない、ということを誰かに吹き込まれて、なんというか本気で苦行として取り組もうとしたみたいに見えてくるのですが、なんかそういう理屈あったらしいしなぁ…。
奥さんの側だとそもそものったりしてたみたいなので、あの、うん…あの、不毛。

12月1日めも。

田端でばったんばったん、あくまで近藤さんの文士村のシリーズは文士村という貧乏文士の集団生活の、まあ比較的規模の大きいところとは言え近い時代を書いた作品というだけなんですけども、これ、純文学という意識が明確に出てきて(そもそも「純文学以外」が出てこないと純文学って明確にならないんだよね、当たり前なんだけど)、大衆文学というきちんと商売としてペイするジャンルに置き去りにされるようになった頃までとちょうど同じ時期なんだよね。
これ以前の文士たちはそもそもインテリとして群れてたし、そこの生活も正直若干数の「女性好き」の人はいても乱脈であってこそなんて雰囲気ではなかった。
あれ、女性が好きで女遊びする人って正直別に構わない気がしてるんだよね。
乱脈生活そのものが目的で道具として女を扱う人が作家でございって言われても、そんな純文学あんまり読みたくないです、ごめんなさい共感部分が皆無で。
繰り返すけど女好きだから少しでも多くの女を知りたい!! なら別にいいです。
あわよくば女に養って欲しいとは言っていないけれど(文士の態度ではないよな全く)、愛人の数が多いのに全く財政的に足りてない場合に女に職業を与えて! という文士は何人かいましただいたい逃げられました。
そういう女性が選択出来る商売がだいたい水商売で、多分そこで出会った男のほうがだいぶんマシだったとかまあそんなところだよね想像が付く。
 
あの、芥川の死後、こういう人たちが純文学の根底を支えてたんですかね…。
菊池さんがとある大衆作家さんの葬式で、純文学という娯楽ではなくてちゃんと作家として仕事してたの偉いって言っててびっくりしたんですが、言われるかな…まあ。

12月2日めも。

なんかもう文士村とか考えたくないです、るーるーるーとなりつつ、田端はなー、多分アカデミックな側面のほうが強いんじゃないかと思うんだけども、芥川がどう崩れてもさすがにインテリだしなぁあれ。
趣味の如何はともかく、凝り性なのできちんと仕上げてしまうんだよね。
心境小説どうのって話も、こないだぽちぽち打ち込んでたんですけども、要するに『歯車』だよね、あれ、実は結構偏ってるってあとから気づいたんですが、全て全て「事実」のみで構成されていてあの完成度っていう。
私が作家ならそもそも精神異常の兆候があるわけでなし(幻覚見れません)、事実のみであれ越えるとか普通に無理なので、あれで突き当りでいいんじゃないですかね、他行くわってなるよなぁ、聡明ならそうなるんでないのかね。
芥川を真似しようとしたところで私はそこに実りがある気がしないなぁ。
まあ、勝手に、というか生まれつきそこ寄りであり、そこに惹かれるというのならば頑張ってー!! という強めの声援は寄せられるけど、意図的に寄せてどうすんのってなる、だって普通の人、思い詰めすぎて幻覚見ないじゃない。
 
んにゃ、なんの話かっていうと、文士村ってそういう方向に行っちゃったのかなぁ、とほんにゃり、ほんにゃり。
純文学分野で芥川と芥川の全集への傾倒が酷かったとか、昭和期の話だよな、芥川死去が昭和2年なので傾倒の時代って多分そっから戦争突入くらいまでだよな。
芥川は別にいいかなと思います、もうちょっと楽に生きて欲しかったけどいろんなものきちんと仕上げてってえらい、そこに傾倒してたら…大衆文学に置いても行かれるよな。

12月3日めも。

田端ぱったぱたの文士村、ちょっと前日分のを書いてうがーうがー、みたいなのが収まっていたんですが、要するに私は文士村においての女漁り(繰り返すけど男を支えたい!! という願望いっぱいでいろんな人の胸に飛び込んでは冷めてた宇野千代さんはあれはあれでいいと思う、なんか頭おかしい谷崎もおかしなまでの女好きを貫いていて悪くないと思う)と非常に単純な娯楽をもってして「作家としての経験」とか思ってるあっさい根性が苦手だったんじゃないかなー、と思います。
だばだば旅行に行ってはなかなか帰ってこない作家とか別に嫌いじゃないしなぁ、出会えるかどうかはわからないけど新しいものを探しに行くとかいうやつ。
全然定住しないし定まらないんだけど、別に嫌いでもないです、それはそういうものだってわかるし、目的と手段が乖離してるとは思わない。
文士村でわりと簡単に手に入る女の数を増やして刺されて、女に水商売させて逃げられて、というのが純文学として必要な経験って言われると、そこじゃなくない? というか周囲ほとんど似たような生活してるよねっていうバンドマン。
ぶっちゃけ、書くと鬱憤溜まるからばーっと遊ぶっていう宴会遊びとか全然まともに見える、というか金があるから遊ぶ人たちもっとまともじゃん全体的に。
借金山積み生活のほうがまだしもなんか新しいことしてるよなぁ。
 
文士村ってのはある意味で、疑似の破滅生活だったのかなー、と薄ぼんやりと思うんですが、破滅したら人としての格が上がるみたいな、しかし、それに耐えた人って別にもともとそれなりの人って感じだしなぁ。
芥川を最後の純文学作家って呼んでた人がいたのもあるいは…ねぇ。

Tag: とうらぶ・文アル雑記
(とうらぶ・文アル他、101)