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雑記:とうらぶ・文アル他、75

Last-modified: 2017-06-06 (火) 23:58:27

雑記:とうらぶ・文アル他、75

2月27日めも。

ところでこれを打ち込んでいる(出先です、接続なし)傍らに『明治の文学 第23巻 田山花袋』があるんですが、正直どうだろ? 島崎藤村なんてのはまた別格として、国木田独歩のほうが知名度上かなー、という気がしないでもない。
まあ、私が主にこの辺のところを聞いているのは社会関係の本を読んでいる時の資料なので、いわゆる自然主義文学(by日本)というニュアンスでもないんですけどねー、というか花袋と武者さんが一時代の文壇の主要人物、というより時代を代表する存在であるということがどうにもいまだにいまいち頭の中でつながっていない。
いや、資料読んでてもどこでもそうなので疑っているとかではないのですが、自分がどこでなにを落としてしまったからそこの知識が欠けてるのかがまだ全然見当付かないんだよなー。
一応【紅露時代】、というより尾崎紅葉に関してはその後の自然主義の台頭によってどうのこうのってので理解はしたんですが、その当の自然主義に関しての記憶がない体たらくなので、正直お話にならないレベルなんじゃないですかね。
かと言って白樺に関しての知識があるってわけでもなく、すごくざっくり言うと谷崎潤一郎くらいからしか「ちゃんと関わったor同級生らが好悪という目で見ていたor趣味の対象として扱っていた」という記憶がないのですよね。
 
で、真面目にリアルタイムで信者がいるってなるともう完全に無頼派からだよね、あれ以前なんて教養からまず入って、という順序しか見たことないし。
この辺、単に私の周囲で文学趣味が流行ったのが中学校もしくは高校で幼いから、という理由かと思っていたのですが、紅露以降特に文体変わらんよね? 別の意味っぽい。

2月28日めも。

ところで田山花袋の名前を挙げたまんま、武者さんと併記して触れるのを忘れていたんですが、自然主義の天下が多分『蒲団』から始まったということになるのかな(ええと、明治40年)、これ以前の島崎藤村の『破戒』はちょっと方向性が違ったらしいみたいなことがもものまんじゅうが引っ張り出してくれた教科書にあった、んだっけ別の本だっけ、どっちかというと元祖・自然主義の社会派分類らしいです、あれは。
えーと、ああでも、『破戒』が明治39年なんでそんなに時期には大差ないか。
白樺が出て来るのはとりあえず明治末まではないのかな、いやでも、明治43年に谷崎潤一郎もういるな?! この時期何歳だよあの人…。
 
えーと、すごくざっくり、『蒲団』そのものは別にそんな大してグロテスクでもないです、ただ、この本を見てそういう言動をしたり、そこで笑った、みたいなことを言い出す人がいたんだとしたら、要するにそれがこの本の成功の理由だよなー、的なことが解説で語られてまして、まあ納得。
要するにどこがどのように赤裸々だったのかというと、男が女に完全なる片思いをしていたという部分であって、それこそがもっとも当時斬新だったらしいです。
解説の人はそのモデルとなった女弟子の写真まで持ち出して「これは到底美人とは言えないから恋愛はなかった!」的な感じのことを語っているんですが、いや正直、独歩さんみたいな派手な経歴の記者の相手になるような玄人美人と比べたらそりゃだいぶ落ちるとは思うけど、田舎育ちの女性には見えんよあれ、というレベルじゃん普通に。
若い、下品ってほどでもない、わりと知的、明るい、奔放ともなると、普通に中年分類の男性がのぼせ上ってもいいんじゃないかなぁ。証拠ってほどの精度ないよな。

3月1日めも。

で、引き続いての田山花袋『蒲団』の続き、極めて個人的にはほとんど実話に近いんじゃないかなー、というふうに私は読んでたんですが。
確かに若い子が来てただ単に華やいだ気持ちになったことと、若い頃の盲目な愛情の経験を結び付けるみたいなことは男性作家はわりとすると思うんだ。
ただ、若い女の子を引き受けたあと、なんとなく奥さんとの仲が好転していくみたいなことは、普通の男性はフィクションだと書かないと思うんだ…。
要するに夫がちょっとぐらっと来てたのはわかってたけど、ちゃんと良識守ってた、そのうちになんか相手の女の子に恋人出来たって時点でな、むしろいい刺激になって家庭生活のほうは円満になったみたいなのな。
夫が呆然自失となってる状況の裏で普通に展開させないと思います。
その続編である『縁』では最初から最後までどどーんと好意的だよねあの奥様…、正直、最初に引き受けた時点で夫に心配してるみたいな様子もなかったけど、なんか自分は関係ないって距離感だったもんな。
(あるいは実際には不信の目を向けられてたけど、気付かなかったのかもね、あとになって好意的になると普通に言動が視界に入ってくるけど。)
 
まあ、2作目の時点ではあれだよな、夫の出世作のモデルだもんな普通にな!!
そりゃ、優しくもなるよ、下手すると運命狂っちゃったりしなかったかしらと親身にもなるとも、そことはあんまり関係のなさそうなところで不幸なら、世話もするよ。
「あんなもの」書かれて若い二人の運命が本当におかしくなってないかは、地味に心配です、ていうかずっと念頭にあるんだぜ、少しは気を使ってあげようよ?

3月2日めも。

前日分から引き続きまして、田山花袋と前後時代の文学についての話なんですが、とりあえず個人的には「当時の文学は男は女から思いを寄せられるものであって、片思いを語るのは異端者やなんらかの障害の形としてしか描かれていなかった」という当時の風潮にはなんとなく納得するものを感じるのですが。
ただ個人的には「片思いなんて恥ずかしい」「女から一方的に惚れられる文学以外は怖くて読めない」という結論になってしまうほうが正直3万倍くらい恥ずかしいし、かなり若い女に一方的に片思いして踏みとどまった男のほうがどっちかというとまだしも健全なのでは…という気持ちになるというかなんというか(『明治の文学(23 田山花袋』筑摩書房の解説です、ざっくり大意だし、多少あれだけど!!)。
 
で、この場合は個人的に、女の片思いなら文学的にも描く意味があるけれど、男の片思いを描いてもな、というほうがしっくりいくんだよね。
というか、要するに異端者や障害ってのは悲恋だよね。
男の片思いでも悲恋ならありだけど、悲恋なら片思いよりも両者が思い合ってて引き裂かれるほうが文学的価値は上だなー、となるのは別にそんなに違和感はないんですよね、どっちかというと、西洋の騎士道精神なんかもそれだよね。
女のほうが地位が高ければ成立するんだけど、日本だと醜聞だしなぁ。
男のほうが地位が高くて悲恋って日本だとあんまりないしなぁ、それでも全くないわけでもないんだよな、権力者が振り翳して失敗って話になるよね。
要するに日本の風土で男の片思いを、文学として一定の価値を示すことが出来たのが結局、田山花袋しかいないってことに、なってしまった、ような気が、あれ?

3月3日めも。

『蒲団』が比較的私みたいな時代を違える女にも面白く読めたのは、結局のところ「新しい時代の女」というものに対しての感情が、結局自分の下心とでもいうような煩悶のせいで全く真っ直ぐになっていないことにあるんじゃないのかなー、と思いながら読んでいたんですが、全体的に生々しさが減ってるんだよね。
例えば自分の妻は旧式で、新しく来た女弟子は新式の教育を受けている。
ああいう時代の女だったらなあああ、と煩悶する辺り。
個人的には私、あんまり嫌いじゃないんだよね、だってこの人、旧時代の女のこと責めないんだもん、新時代の女に対して憧れは持ってるんだけど、自分の妻が新式の教育受けていたら楽しかったんではないか、なんだもん最初が。
男にはこの違いがわからんかもしれないけど、女はわかる人多いと思う、これだいぶ違うと思うんだよね。
女弟子に対して若干どぎまぎしてることはあっても、妻に対して失望の視線向けたりもしないんだよね、まあもちろん、自分の妻にも見せることになるから略したっていう可能性もあるんだけども、正直やってないんじゃないのかなー。
なんか、なにかとなにかを比べてどっちかを貶すって思考回路があんまりそもそもなさげなんだよね、ていうかこの作者さん、実生活とか評論でもそんな感じよね。
で、両方を抱えて! とも考えないんだよね、妾にする選択肢がない。
妻と別れるなどの具体的なことも特に考えない、ただひたすら、自分のありえなかったifを単に妄想してるだけみたいに見える。
 
言っちゃ悪いけど、主婦の妄想っぽい。まあただ、だからいいんじゃないかなぁ?

3月4日めも。

『蒲団』田山花袋について引き続き。
このあとの時代の作家たちが単に性そのものを赤裸々に描くという部分を受け継いだだけであって、そのテイストの主要部分である「男の片思い」を継承しはしなかった、というふうにも言われていたんですが。
まあ、正直そのほうが無難かなー、というのが個人的には。
意図的に片思いを演出したっていう説だと、受け継げた可能性もあると思うんですけども、あれなー、多分、作家まんまだしな。中身。
 
個人的に作品に対し島崎藤村がなにも言おうとせず、国木田独歩があれ甘ーい、けど、あれってそのまんまだよな、と言っていたらしいってのがちょっと好きなんですが。
どっちの態度も、特に作家同士のじゃなくて、要するに友人としての態度なんじゃないかなー、という。正直。
えーと、この女弟子のモデルとなった人物が明治36年に弟子入りして、結婚問題が明治38年、で、明治40年が出版。
となると島崎藤村の『破戒』なんかと執筆時期どっかで被ってると思うんだよね、で、この作品書いてる終盤の時期(行き詰ったらしい)にわりと花袋と藤村がべったり一緒にいたらしいことを、藤村側のほうで読んだのですよ、私。
女弟子の話、花袋って藤村にしてなかったんじゃないのかなー、ふと、。
人様の家庭の娘さんの事情だし手紙に書けとかは言わないけども、わりと一緒にいる時期なら私なら教えておいて欲しいかなー、と(*´∀`*)ははははは
もはや「面白くない」の桁が違う感じです、文学なんも関係ないこと話してるよ!

3月5日めも。

ところでなんでそもそも、明治の作家の中で田山花袋を借りて来たのかというと(なんかあんまり現代知名度はないと思う、理由知らんけど)(藤村が一番かなやっぱり?)、どういうわけかこの人が周囲の作家やら学者なんかの中で、なんていうのかな? リーダー的な存在だったらしいことがなんとなく周囲を読んでいるうちにわかってきたからなんですが、当人がなにをしたからそう扱われているのかがわからない。
というかむしろ、当人を読んだところでそう扱われてることを忘れる。
どっから見てもそれっぽくない、でも、周辺読んでるとどうもそれっぽい。
第一級の学者だの有名文士だのごろっごろいるんだよね。
ただ、それに対比するのに『蒲団』を挙げるのは…いや、面白かったと思うけど、今後も廃れきってしまうことはないと思うけど、なんだろう、ちょっとこう、申し訳ないながら大作とはちょっとさすがにこう。
そしてこの話が性を表沙汰にすることに対しての口火を切った、と言われると、どうなのかなー、となるんだよね、この話、品性が欠けてなくない? 上品だよね?
新しい時代の女を、多少の色眼鏡で見てるけど、全てにおいて優しいよな。
この少しあとくらいから自然主義のモデル問題で何回かがたがたと揉め事が起こるんですが、この話の場合、「先生、なに書いてんの~(泣」と送って来たのだろうモデルの女弟子も、数年後にまた家に預かることになってるしな…。
 
どっちかというとあれなのです、性について触れることを絶対的タブーとは思わなくなったんだろうだけど、やっぱりあんまりなんにも継承されてない気がするんだよな。
それとあと、私、「男の片思い」見た覚えがあるんだよね、これより前の時代で。

3月6日めも。

田山花袋とか『蒲団』とか、諸々。
「男の片思い」が日本の文学の題材として取り上げられることがないんじゃー、というのを真面目に読んで来ていて(そこはわかるから)、ふと思い出したのが同じ『明治の文学』の中の尾崎紅葉。
あそこにあったよね、何個か、男の片思い題材、いやまあ、特に取り上げるだけの価値がないって言われてしまったらあれなんですけども、一応花袋が弟子入りしようって相手だし、まあ長編じゃないって言われたらそれまでだけど、わりと真面目に懊悩語ってたり、ひどく思い込む男とか出て来たよなぁ…あの人。
悲劇ってわけでもないし、喜劇ってわけでもないし、皮肉ではあったかな?
というか、紅葉作品て男が幸福にならないみたいなんだよね、意地の悪い女が出て来るわけではないんだけども、なんかこう、なんかだいぶ皮肉な結果に終わるというか。
あの女の気質がレトロタイプってのもあくまで時代のせいであって、新しい時代になるまで生きてたら生きのいい跳ねっ返り女も描いたんじゃないのかなぁこれ、と思いながら読んでいたんですが。
ぶっちゃけ、紅葉作品が少なくとも好きだったなら、男の片思いを恥とするみたいな心証はそんな特に持ってなかったんじゃないのかなぁ?
 
というか、当時そういう時代だったんだよね? 尾崎紅葉が亡くなってその近辺が全て振るわなくて、だけど、まだ読者の層が一回りするほどの時間も経ってない数年程度。
紅葉作品に振り回されるのが好きだったマゾ男性たち…まだ十分残(ry
なんかこう、いけそうな気がしてきました、打って出る価値あったな?

3月7日めも。

もともと断片的に書いていたんですが、長くなったんで改変。
えーと、抜けた数日分くらいどう埋めよう…適当に考えるか、というか、もう1冊借りて来た出版社の本のことでも触れるかな。
もともとよくわからん、と思っていた田山花袋について、読んでいた本などを題材にかなり適当にだらだら語ろうとしたり、通史のどこに位置するんだっけ、ということを思い出そうとしたらそのまま別の話になったりしていたんですが。
なんか、曲がりなりにもなんとなくわかってきたような気もしないでもない。
というより、花袋さんって要するに、男の片思いとか、性について言及するとかそういう特別なことを最初に成し遂げた、というより、己の弱さを曝け出した人ってことなんじゃないのかなー、と、「男の片思い」なら尾崎紅葉も皮肉に描いてたけど、あれはやっぱり若干読者まんまってわけではないからなー。
あと、やっぱり女に直接酷い目に遭わされないのも物足りないです。
というか尾崎紅葉が書いた強気の女とか、滅茶苦茶見てみたかったよ正直!!
『金色夜叉』まで行ったらね、あとちょっとだと思うんだよね…、あのヒロインは事情があって男が勘違いしてる体裁っぽいんですけど(読んだことない)、それが終わったら次は本物の性悪女…読者はきっと全力で振り回されたかったと思うんだ。
惜しい人を惜しい時に亡くした、と言う後世人(のそれも女)は多分そんなに多くないと思うんだけども、同時代の読者だと結構いたんじゃないのかなー、花袋とか。
 
強い女を描いた創作っていうと真っ先に出て来るのが大正の『真珠婦人』なんだけど、それ以前にもあるのかなぁ、弱い男だけでなくて、そっちも分析欲しいよな。

3月8日めも。

というか前日分で尾崎紅葉でかっ飛ばして丸々一つ語りましたが、正直なところ、ルックスさて置いても『蒲団』のヒロインも『縁』のヒロインもそんなにさして魅力的でもないんだよね。
というか、新時代の教育の女だああああ、うちの妻もあの世代ならってうっとりしてたのって、結局どこにそんなに惹かれたのかが実はよくわからない。
いわゆる傷物になった時点で、むしろワンチャン? と思う理由がわかりにくい。
女が自分の影響力をあまりにも過信していて、男が裏切ることが全く念頭にないとか、ものすごく残酷なことを書いているんだけども、しかし明らか普通の男にとってだいぶマイナスだろうその要件が全く特に当人に響いている様子が全くない。
そんなことだといいようにされてしまう、的な心配しかしていない。
お国さん(別の弟子で一時期ヒロインに付き添ってた)やら妻やらがせっせと世話焼いていたり、ヒロインの夫(未満)への不満をわりと鷹揚に聞いている辺り。というか、その男が遊んでることに対しての反感に、同じ男ならではの共感が全くない。
 
新時代って言っても半端に思い通りにされてちゃ駄目じゃないか、旧時代のほうがまだしもだよ、押し通さなきゃ、の意味が、いまいち取りにくい。
とにかくこの人はどうもこう「強い女が好き」「女の強さはいろいろあって、どの強さもわりといける」のではないかという、なんか、そういう疑いが。
処女性の有無にはそこまで拘らないんだけど、駄目だよー、いいようにされてちゃ!! みたいな勢いを付け加えるとわりとしっくり来ないでもない。
個人的には好きです、あの、未来に生きてる(2017年より)。

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