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雑記:とうらぶ・文アル他、78

Last-modified: 2017-10-11 (水) 23:16:44

雑記:とうらぶ・文アル他、78

3月29日めも。

腰が痛いです、リアルタイムで10月11日、物忌み(隠語)です。
んであと、『文藝春秋七十年史』というものを読んでいます、数ページに一回くらいのペースでんー? となることがあるものの、正直、どこかしらが間違ってるんだろうな的な認識しか出来ないなぁ…。
「どこかしら」がってまあ、曖昧ですやね、うん。
 
すごく今更なんだけども、大正12年に菊池寛氏が作った同人文芸誌です、ていうか今まで見てた中では結構曖昧だったんだけど、ここの本文では明言されていたようにこの同人誌の人材が菊池系と芥川系みたいなところで二分されてるっぽいんだよね。
菊池系の若手はえーと、大正13年くらいにだっけ、『文藝時代』っていう別系統の雑誌を作りまして、うん、大丈夫だ、大正13年の10月に作られて昭和2年に廃刊かー、これなんでか作られたことまではよく触れられてるんだけどどうなったのかがいまいち触れられてないんだよね。
あれ、昭和2年って芥川龍之介が死んだ年だね…?
あの時期にはいろんなことがごたごたしてたから、どうもそれどころじゃなかったんかもなぁ、つか、ちゃんと調べてみたほうがいいのかなぁ、前後関係。
面子的に菊池系としか言い様がない、あれ、横光利一だとか川端康成なんかがメインだったようなんで、普通に戻って来たんだと思うんだけどねー、文藝春秋に。
あちらのほうの派閥は微妙に流れがわかってないのでちょっと自信がない。
というか最後の号は昭和2年5月号、えーと、芥川龍之介は7月24日自殺。
あー、少なくとも『文藝時代』触れられてないのは無理もないかも、忙しいわこれ。

3月30日めも。

ところでなにがどうというほどまとまってもないので(なんかねー、信用出来る語り部が少ないの、もちろん悪意で誤魔化す人もほぼいないけど!!)、まあ適当な雑感みたいなところを語ると、今の時点で気になるのはなんか菊池さんのお家と『文藝春秋』がどうなっていたのかというのがいまいちよくわからない。
多分ほとんどは悪意もなにもないと思うんだよね、ただ、一部わざと伏せてるのかもしれないという部分もないでもない。悪意ってんじゃないけど。
時々文士村って呼ばれることがある田端に菊池さんが住んでいたことがあるってのはわりと知られているように思うんですが多分これ、「関東大震災の直前」なんだよね、文藝春秋を作ったあとくらい。
だがしかし、関東大震災直前って語られてるよりも関東大震災がきっかけで引っ越しをしなくてはならなくなった、と語られていることが多い。
文藝春秋の社史でもそんな感じなので、わりと正式な場でもそうなってるんじゃないのかなぁ、しかし、「関東大震災の直前」のほうが内容が詳細なんだよね…。
田端の展示なんかでも見れますし、芥川近辺の人の言及でもちょくちょく見れる感じ、ただあれ、犀星とか芥川とか菊池さんとか完全な当事者が触れてないのでどうもどちらと完全に言い切るのもなぁ、て感じ。
 
あとあれ、家族が一緒だったのかどうかも曖昧、田端系だと家ごと転居っぽい。
しかしぶっちゃけ、田端時代が短くても芥川の近所に住んでたら子どもたちが言及しててもいい気がするんだけど、手紙があるはずなのにねー、みたいな、よく知らん有名人扱いだったんだよね…、震災時点で本郷に住んでたとも言われてるし、わからん…。

3月31日めも。

昨日の分の続き、今の時点であれ、手元にある情報を整理しようとすると震災前に田端に単独で室生犀星が転居した家を菊池寛が買い取り。
そこを震災ののちに『文藝春秋』の編集のために使っていた。
 
でさっくりいいんじゃないかと思うものの、この家、そもそもなんのために買われたのよ一体? というのがよくわからない。
ぶっちゃけお金がないということをじくじくと悩んでいた犀星氏のお家ってこう、そんなに広かった気がしないんだよね、というより、田端に行った時に実際に歩いてその近隣見に行ったんだけどなんか長屋並みにみっしみしにいろんな人(文士)が住んでた表示があったんだよね。
あれが時期がズレている可能性はむろんあるものの、というか可能性は高いと思うものの、菊池さん以外がそんなに大きな家が必要そうな面子でもなかったのよね…。
お金ある文士って当時少なくて、田端ってのは地価が安かったわけですな、利便性が低いみたいな理由で(あとどう考えても立地的に湿気が高い、実際そう言ってる人何人かいたしなー、朔ちゃんとか)。
菊池さんはすでに自分の作品を劇団立ち上げになった戯曲から始まって戯曲化山盛りだのだの新聞契約者20万人増だかの連載をこなしていたりとか、そんなにかつかつでも、ないよね? ただ、その時点まで少なくとも借家暮らしだったこともまた間違いないので、なんだ、どう考えても変わってることが揺らがないのでよくわからない、というか2階建てで夫婦には広い程度で本当に雑誌編集出来たのかもわからない。
正直、どこが謎だかよくわからなくなって来たからまたにしよう…。

4月1日めも。

『文藝春秋』の社史を読んでいます、で、気になったことその3。
佐佐木茂索さんて、いつから文藝春秋にいるの? みたいな、あれ、最初の立ち上げの時点では芥川系人脈の一員として普通に参加してて、昭和5年の時点で総編集長として迎えられたってのはまあまず間違えではないと思うんだよね、これ自体は。
だがしかし、経理が全くなっていないので今会計がどうなっているのかわからない、ということを語っていたのはそれよりも前だったような気がするし、「会計がどうなっているのかわからない」ので総編集長を迎えるというのも正直意味が通らない。
読者数が減って来たのでその立て直しのために総編集長として佐佐木さんを迎えた、というのと、会計がどうなっているのかわからないから佐佐木さんになんとかして貰ったって、あるいは別の時期だと考えるほうが妥当なのでは、と思ってしまうんだけどどうなんだろう?
正直、大正末くらいに会計おかしいんだわ的な文章読んだ記憶があるんだよね。
前の危機を救ってくれたのが佐佐木さんだったので、また頼ろう! みたいな?
どうかなー、これ、私の推測部分はともかく、なんか混乱はしてると思うんだよね。
 
佐佐木さんは微妙に私にはエンカウント率が高いんだけど、文士方面からだとあんまり聞いたことがないんじゃないかしら。
とりあえず文藝春秋の戦後の解散後、新社の社長となった感じの人です。
こないだ芥川に関した文章読んでたら、芥川が感極まって泣いてたのがこの人対してでね、なに言ってるんだかはよくわからないけど、なんだろ、油断ならない? 違うな適わないだっけか…わからなかったなあれ…(小穴隆一『二つの絵』青空文庫所蔵)。

4月2日めも。

『文藝春秋』の社史(70年史)を読んでいます、で別に疑問とかじゃない雑感。
まあまず社史のトップページが歴代の雑誌がカラーで並んでたんだけど、2号めの表紙が読者の人が送ってくれた木版だそうで、さすがに個人誌とはいえちょっと大胆な気もするね?! となるんだけど、3号でもう装丁の人頼んでました、太っ腹や。
あとなんか、見覚えあるんだけどみたいな画家がずらずら。
いや、私の知識だと正直装丁家みたいな人は知らんので本当に画家さんです、川合玉堂とか、藤田嗣治とか、鏑木清方とかそんな感じ。
というか、青空文庫にも収録されている小村雪岱(>泉鏡花先生のこと)も名前だけだけど書かれてたので、結構広い範囲に頼んでたのかなー? という漠然とした印象なんですけどね、文化レベルが高い人だともうちょっとわかるのかも…。
いやさすがにこの辺はわかるよなうん…。
これ自体がなにを示しているのか、そもそも名前を知られた画家であっても、果たして名を知られた時期にこういう装丁を手掛けたのかどうなのか、というのが正直どっちかわからない面はないでもないなぁ。
文藝春秋がそれなりの地位なので、ある程度名前を知られてる画家でも別に引き受けていてもそこまでおかしいわけでもないしね、どっちだろ?
 
カラーページのあとのほうにある「文藝春秋祭り」というものの絵に関しては、これは名の知れた人だろうなって感じだしねー。
平山郁夫とか東山魁夷とかが描いてました、これはまあ…うん…びっくりしたけどまあ、なんか表紙とはまた系統が違う感じだし頼み込んでてもまあ。

4月3日めも。

『文藝春秋』の社史読んでますよ、の6日目分くらい。
正直、大正15年の段階で総合誌になった理由がよくわからなかったんですが、うーん、吉野作造を呼んだのがそのちょっと前かー、そういう意味かしら。
なんかあれ、昭和になってからすごいいろんな人呼んでる感じ。
吉野作造という人は世に言う大正デモクラシーの三人の代表者の一人だそうです、残りが美濃部達吉と新渡戸稲造さんな感じ、ついでに新渡戸さんは菊池さんが選挙に出る時に(昭和3年)喜び勇んで応援に駆けつけてくれた人やね。
もともと一高の校長さんで、特に聞いてないけど菊池さんのマント事件の時も庇ってくれたんじゃないのかなぁ、性格的に…(分け隔てなく優しい人だし、普通の感性の人が見てたら誰が見てもおかしいしあれ、帝大の学長のがおかしいだろ正直)(先祖代々村のために働いていたら投獄されていたことが自慢の人ー)。
新渡戸さんなんかも文藝春秋に呼ばれたことあるのかなぁ、ざっと並べられていただけなのでちょっとわかんないんだけどね。
というか多分、選挙の時も菊池さんが無産政党で出馬してたので喜んでいたんだと思うのよね、左寄りの人でございます、あくまで「寄り」だけども。
 
正直、この辺の政治家や各界有名人の対談とかはちょっと見てみたいなぁ、前に読んでた本だと軍人ばっかりまとめられてたけど、政治家もそれなれに…あ、新渡戸稲造いたわww えーと、徳富蘇峰、後藤新平、新渡戸さん、堺利彦・長谷川如是閃、柳田国男・尾左竹猛、泉鏡花、みたいな感じで並んでるねー。
二人わからん…てか、尾左さんて法学者か! 民俗学かと思ったわ!!(表記ママ

4月4日めも。

『文藝春秋』の社史を読んでおります、の7日目。
ちょくちょく名前を見掛ける小林秀雄さんという人がどういう人物だかわからんなー、と前から思ってたんですが(だいたい菊池さんの本とか読んでると出てくるよね、論文でもたまに出る)(論文はわりと時期限られてるからね)、うーん、学生時代、大正15年くらいから文藝春秋に出入りしていて、昭和2年くらいには匿名の書評。
昭和5年には企画持ってた人かなー、なんかぶきらっぽうな職人めいた態度で着流しで、目付きが鋭かった、と言われていていわゆる「無礼な若者」だった模様。
で、まあなんだ、出入りしてる時点から菊池さんにあれ誰、と聞かれてたので、なんだ…菊池さん結構そういう若いの好きそうだよね、手強そうなの…。
(これはあんまり変な意味とかじゃなくて、川端なんかもそれっぽいというか、あれもだいぶ早い時期からのお気に入りだよね。)
 
そいで昭和8年には『文學会』という雑誌を出しまして昭和11年くらいには文藝春秋に引き取られていたそうです、菊池さん…菊池さん、お気に入りって認識でいいかな? いや、腕とかいろいろあるけども。
あと、ちょっと知られてるのが中原中也と女性巡ってさや当てがあったみたいなのたまに聞くよね、これもこないだ流れて来てたんですが(中也といい仲の女性が小林さんのところに行っちゃった、が、そこも破局)、私、そのあとで二人の仲が復活してたのって知りませんでした…、そんな重要でもないと思うんだけど、一行で済むと思うんだ、一文で済むと思うんだ、死ぬまで付き合いあったって聞いて驚いたわよ!!
あとあれ、詩人出身というのも知らなかったので…難しいなぁ情報収集…。

4月5日めも。

『文藝春秋』の社史読んでます、の昭和7年の掲載番付を見てて、あれですね、これ大正14年にもあってそっちはさして面白くなかったんで目を特に通してなかったんですが(なんとなく予想が付く通りというか、予想付かない場合は名前がわからんのではないかなという域というか、あくまで個人の雑誌だったからねー)、昭和7年の掲載回数を見ていてびっくりしたのが武者さん(武者小路実篤)、57回?!
芥川とタイで、直木さんの66回しか上回ってる人がいないという。
大正14年の時点でも載っていたんですが掲載回数8回、でこれはまあわかる。
あ、ちょっと計算間違えてた、えーと、57-8回で49回。
月刊誌で大正15年からカウントして7年分(大正15年と昭和元年が同じ年)、で84号あるので、1.7号に一回のペースで武者さんが掲載されていた模様です、匿名記事や連載を持ってた小林秀雄氏がそんなに回数なかったので、まあ、単独で載ってるってことだよなぁ、ううん、ううん、多いよね?!
立ち上げ時点からいて菊池さんの片腕みたいなこともしてた直木さんと比べてまで特にそん色ないってなにごとだよー、よくわからないよー。
むしろ逆に、よく引き受けてくれたものですね、という頻度だよこれもう…。
これ、わりと上位に白鳥さん(まあ評論メインだしな)、犀星、秋声、里見のとんちゃん、川端、あら、白鳥さんと仲いい近松さんもいるわ、秋声と名前が似てて改名したって人ですな(徳田秋江さんだっけ?)。 
 
主になにで載ってたんだろう、地味に気にならないでもないなぁ。
あ、間違えた、徳富猪一郎って蘇峰さんか! 蘆花さんはやはり呼べなかったか…。

4月6日めも。

『文藝春秋』の社史、読んでます、の9日め分。
昭和6年の時点で「頭の白いネズミ」と呼ばれる横領犯が3匹ほどいたと言われてまして、これが誰だったかは結局触れられてなかったんですが(一人は銃持ち込んで暴れたらしいから別に構わない気もするんだけどなぁ…)、なんとなくそれ読んでたら思い出したのが前に菊池さんを扱った本で触れられていた成瀬さんのお宅から金庫番になった人がいらしたみたいな話。
成瀬正一さんてのが菊池さんの京大時代の学費出してくれた『新思潮』の同人仲間なんですが、彼はついでに自分でロマン・ロランの翻訳を成し遂げ、新思潮の立ち上げの代金を稼ぎ出して菊池さんの分の会費を自力で賄っていたという…。
わりと流されてるけど、お家のお金に頼ったんならまだしも、なんでまたそこまでしてるんだろうこの人…、という気分にならないでもない感じの人なんですが。
どうも文藝春秋で雇われていたのがこの人の兄弟の方みたい。
(お金出してくれた成瀬さんの息子さんって紹介だったからね。)
 
あー、なんというか、なんというか、うん、お金に関して任せてもあんまり問題なさそうだな、と思わず考えてしまいましたとも、他人のお金に手を付ける必要ないよね?
成瀬さんのお母さんは息子がアメリカに行っている時期に上京した菊池さんを自分の家に住ませ、山のような食事をさせていたことが伺われ(新思潮の松岡さん談)、うん、そうね、時事新報時代に残ってる写真がすでにワンボックスカーの風情だったからね。
成瀬さん家がトータルで幸せになってるといいんだけど、と若干心配;><
新思潮仲間の成瀬さんは帰って来てフランス文学者として名前残したらしいよ。

4月7日めも。

『文藝春秋』の70年の社史を読んでます、のとりあえず一旦終了。
リアルタイムで10月11日です、えーと半年以上離れてるなー、まあいいんだけど(あんまりいろいろ進展してないから)、な感じです。
で、今の時点でどうも戦時統制に入っちゃいそうなので一段落。
まだ読むには読んでいく予定なんですけどねー、ところで右翼たんたちに脅されるようになったくらいで「50歳くらいで死ぬ予定だから平気」とか言い出しました菊池さん、みたいな感じ、そういや前に横領してたネズミさんの時も銃の目の前にぐいぐい身を乗り出してってたよなぁ…。
だがしかし、よく考えたらマント事件の時からそんなところがあるよね…。
そもそもギャンブル好きだもんなぁ、負けるとむっつり黙り込むとか言われてるからなんかコミカルだけど、この時代の競馬は正直全く安くないですぜ…(一枚で初任給が引き合いに出されるみたいな桁な感じ)。
 
お風呂入るのが嫌いって言われてたんですが、そもそも自分で上手く靴が脱げないとか、若干身体の形が違ったんじゃなかったかな…なんか説明がちょっと難しくてわからなかったんですが(土踏まずの部分が異様に高いとかそんな感じ? 読み間違えてたらごめんなさい)、これで心臓に異常があって、その上で太っちゃったらまあ、厭世的になっても仕方ない気がするんですけどねー、あれこれ、厭世的じゃないな、逆か?
そういや、芥川への評価も「後事を任せたい」になってたよね、一回ガチの狭心症の発作の時の遺言でも書いてるよね…。
あの…その、ちょっと酷くない? 評価してるのはわかるんだけどさああ;>д<

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(とうらぶ・文アル他、78)