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雑記:とうらぶ・文アル他、87

Last-modified: 2018-01-22 (月) 02:17:04

雑記:とうらぶ・文アル他、87

7月7日めも。

『日本文壇史』3巻をそろそろまとめたほうがいいものの、どうにもテンションが上がらないので一旦別の内容を書こうと思うのですが、そういや、地味に近代史…てほどではないかな? 文士には関わってくる学歴ですが(どこそこで誰と出会うとかそういうやつ、菊池さんと芥川の同級生たちの文士率は「不気味なほど」高いって言われてまして、正直私もつらつら見てたらマジだ、となりましたよ…文士って身分低いんやないのか、なんで最高学府からそんなにぽんぽんと…)。
これがなんか読んでてよくわからんことが多く、わかりにくい部分をまとめながら(これに関しては概ねネットが信用出来るので、てか、変な人が関わってる気配がない、記述自体がない部分なんかはたまにあります)、調べて補足、と思ってみたものの、自分でもどうまとめていいのかよくわからなかったので、一旦こういう雑文の形で打ち出してみようというのがここの趣旨です。
まあまず有名なのっていったら「東京帝国大学」かな。
基本的に帝大って読んでますが、面倒くさいんだけど「東京大学」って東京帝国大学の前身なんだよ…、止めてよって呻きたくなる勢いです。
(ここを厳密にしないことに問題があるとは全く思ってないものの、一応かなり変化するので私はなるべくって意味で。)
 
帝大ってのは他にもありまして「京都帝国大学」ってのもあります、これを呼ぶ時は京大と呼んでます、これは前身が特にないので最初から帝大としての出発。
ただ私、『大学の誕生』って本の上巻を読んでおきながら下巻を読んでなかったことに気付いたので、京大はちゃんと読んでません、次の機会に読まないと…。

7月8日めも。

あと帝大って東北にもあるんじゃなかったっけ、と検索してみたら明治40年ですね、これがあんまり帝大って呼ばれてるのは見たことないかも。
京大が明治30年かな?
あら、思ったより早かったな、前身というか第三高等学校の敷地を使ったってのは読んだことがあるな(この番号の付く「高等学校」に関してはまたあとで)。
東京大学が明治10年、東京帝国大学が明治19年か。
 
あと九州帝国大学が明治44年、北海道帝国大学が大正7年、辺りかな。
ここまでで5つ、あと昭和になってから大阪と名古屋、どうもソウルと台湾にも作ってるみたいですね、内地に7つ、外地に2つ、とあったからこれで全部かな。
内地ってのはまあ…日本って意味です。
関係あるのはほとんど東京帝大と京大じゃないかと思うものの、いずれ北海道帝大辺りまでは出て来る可能性もあるかもなぁ。
文士だとあれ、教師サイドのこともあるものの、さすがに帝大教授となるとそんなに兼業はいないかな、文士の友人って意味だと結構いるけどねー。
というか物を書く学者って意味だとやっぱりいろいろいるよね。
いや、帝大教授ではないものの(だよね?)こないだ豊島与志雄さんっていう芥川の関係者調べてたら(なんか晩年に「芥川が最も恐れた」とか言われてたんで、ただ、なんか、そっちはよくわからずじまい…宣伝用の慣用句かしら?)、太宰くんの先生だったって出て来たしねー、どこの学校での関わりだか忘れたけど、てか書いてないのかこれ。
この人なんかは先生やっては文学やって、翻訳やって、という兼業みたいね。

7月9日めも。

で「旧制高等学校」、えーと、終わった、というか「新制」になったのが昭和25年(1950年ってほうがわかりやすいかな、1945年が終戦)なので、まあ、わりと切れ目がわかりやすいかな、この手の制度で終戦後ってのは非常に多いので。
幅が多少あるもののあくまで準備期間って意味だしねー。
この旧制の高等学校が大学の前身の一部とされているのは、えーと、要するに大学の教養課程に相当するから、という意味のようですね。
それとセットで考えるとわかりやすいのが「帝国大学」に入るための準備として必要とされたのが旧制高等学校って説明になるんじゃないかなー。
要するに教養課程が別の学校として独立していて、専門性のある部分のみってことで分離してるって意味ね、多分若干違うんだろうけどそれはそれで合理的だよね。
(徳田秋声さん辺りがそんなこと言ってたけど、進学相当の学力があるものの、とてもじゃないけど学費が続かないって言ってる意味もわかりやすい、まず高等学校に行ってから帝大だとなぁ。)
(菊池さんも学費の安い一高には入ったものの、はなから帝大に進める学費はなかったんだよん、という説明されてることもあるよね、高くはないけど長い。)
 
第一高校、通称「一高」は要するにこの高等学校の中で最初に出来たもので、数字が付いてるものが比較的初期に出来たものです、ただ、数字付けないで地元のために! とかもあるしだんだん曖昧になってって破綻したらしい。
今まで私も曖昧だったけど、そもそも戦前に出て来る高等学校は全て旧制に相当するのだということは調べて良かったよ、どこで切り替わってるか自信なかった。

7月10日めも。

だらだら近代の学制に関して。
私は面倒なのでナンバースクールと呼んでることが多いですが(検索しても普通に出て来るヨ)、よく出て来るのが一高、京都にあったという三高、金沢にあったという四高ですかね、こないだ子牛が呟いたんだけど三高はなんか理系の学科しかなかったらしく、これがなんでなのかが…わかりにくいなおい。
多分他の高等学校との棲み分けみたいなものかな…。
(一高に行った人から順番に帝大に入るみたいなところがあったので、どうしても一高の希望倍率が膨れ上がるとは言われてたよね。)
 
なんか京大も独自路線どうのって言われてんだよねー。
菊池さんが東大の学長の庇護してた男の罪庇った「マント事件」で京大に行くことになってるんですけど、ここの本棚に発禁になった露伴先生と紅葉先生の西鶴の本あったー、みたいなこと言ってたしね。
待って発禁になってたの?! というところから驚きだったけど…。
これはどうもブームが行き過ぎたことになったために、内容が、というより見せしめのために吊るされてしまったと理解したほうがいいようです、西鶴自体は結構エロいの書いてて、まあ、加熱ブームになられると困るって感覚は多少わかるかな。
なんでそんなもん置いてんねん帝国大学…(多分そのままになってた)。
まあこの辺はおいおいと、京大は芥川の親友とか(多分見たことある人多いと思います、芥川がずっと手紙送ってた井川さんて人、菊池さんと同い年ー)、あと、のちに総理大臣になってる近衛文麿とか、京都学派の西田幾太郎さんとかちまちま気になる。

7月11日めも。

あとあれ、一高はいろいろと前身があるので「東大予備門」と言われてる辺りからだいたい聞いたことあるんじゃないかな、露伴先生と紅葉先生が行ってるし、あと誰だっけ、漱石さんも行ってるよね。
子規さんは、行ってたんだっけか違ったんだっけか。
この辺の方々は年齢と学年が違うのが普通なので、あと、東大予備門と一高との境目がいつか、いやそれは調べればわかるかな…えーと、とりあえず、「大学予備門」だそうです正式名称…、他に大学ないからな!!
待って大学予備門の次に「第一高等中学校」って呼ばれてる。
えーと、明治27年に「第一高等学校」です、法律なので多分他も全部一緒(他も高等中学校って呼ばれてたみたいよ)、この法律が高等学校令。
明治19年の時点からが第一高等中学校、かな。
大学予備門が明治10年からですねー。
これの前が「官立東京英語学校」って言うんだけど、確か紅葉先生の年表の中に出て来てたような気がする…、なんだ普通の進学校だったんだあれ、てっきり語学学校の類かと思ってた…。
東京英語学校と東京開成学校がくっ付いて大学予備門です。
なんか年代が遡ってるけど気にしないで、あと覚えなくてもいいよこれ。
 
ところで開成学校って新聞の検閲をしていたので記憶しています、ていうかこれも洋学研究なのか、そもそも、初期の授業って他国語で受けてたらしいからなー。
先生がね、いないんですよ、なので先生が輸入だったんだ(八雲さんもそれ)。

7月12日めも。

あとあれ、私大として出て来ることがあるのが慶応大学と早稲田大学くらいしかないんですが、これもどうも正式には大学ではなかったようで、正式に大学昇格したのが大正9年なんでだいぶ遅いんだなー。
菊池さんとか芥川の周辺にもちまちまいるよな、慶応も早稲田も。
早稲田の…文学科? 文科? 正直どっちかわからないものの、あるいはどっちでもいいか途中で改名した可能性もありそうなんだけど、早稲田は確か文科立ち上げたのが逍遥さんだって言ってたんだよね、『日本文壇史』が。
正直そんなレベルで間違えることもないかなー、と。
調べればわかるかなと思ったんだけど出てこないし、早稲田の場合は「早稲田大学」と名乗ることになってるんですけど、これが明治35年。
その時点で文科はすでにあるっぽいんだよね、ちょっとわからん。
まあ明治35年以降は事実上の大学として扱われてるって認識で良さげです、というか、私立大学に対しての法整備が出来てなかったものの、早稲田と慶応の場合は別格ってかなり早い段階から見られてたんだよね。
 
慶應の場合は明治23年の時点で「大学部」ってのを置くことになったようです、というか官立になるのは断ってるけど大学部置くって時点で皇室から千円貰ってるし、なんだろうこれ、上手く意味取れない…。
こっちも大学部を置く時点ですでに文学科あるね、これも文科って呼ぶかどうか自信ないけど、理財と法律、で、理財科が圧倒的に太ってくんだよね慶応大学…。
明言されてないけど荷風さんが逃げ出したの多分そのせい…。

7月13日めも。

だらだら近代の学制についてが続くわけなのですが。
大まかに「年齢が同じだからといって学年が同じ」という習慣はないと認識したほうが良いかもしれないです、えーと、子規さんと漱石さんは同じ授業受けてたから多分…同い年だよねあれ?(そっちの自信がない)
露伴先生と紅葉先生は、学校がひょっとしたら同じ可能性はあるんだけど、学年が違うので同級生だった可能性はほぼないです。
紅葉先生は町人の子で、露伴先生の家は士族だからね。
身分差別があるというよりは、もとの勉強量が違うというか親が教育を受けている量というものが全く違い、そして士族は役人になるくらいしか身を立てる手段がなかった、ので、そんなに最初から士族以外が学校行きたがったわけではないんだ…。
だって別にそんなことしなくても生きて行けるし。
士族の場合、商売をしてもまともに上手くいかず、下手すると飢え死にっていう意味でほとんどの場合は役人になることを目指さざるをえなかったようです…ははは。
 
なのでまあ、名主の息子の漱石さんは微妙だけど(名字帯刀を許された家の可能性も低くないんでないかな)、紅葉先生なんかはどっちかというと学業に向いてるから進学してるはずなのよね、あの人。
あんまり勉強好きそうじゃないんだけどねぇ、役人目指してたとももっと思えんし。
ただ、途中で学費が足りなくなったとかで筆で稼がなくてはならなくなった的なこともどこかで言われてなかったかな、この辺の記述も『日本文壇史』からですが、上の理由で半分は信じてないです、学費は普通に信じてるけど、むしろお金持ってる家かと…。

7月14日めも。

もうちょっと全体的な話の続き。
日本はどうも学校が「専門家を作る」ためというところから発祥したらしく、なんというか役人を叩き込んで専門性を付けるみたいなのはそんなに問題なかったようなんですよ、これがまあ鉄道と絡んでたので聞いてるんだけどさ。
んでまあ、その辺の専門性のある部門や学校(藩校なと言われる士族向けの学校はすでに習慣としてあったからね)をくっ付けてって、海外から教師を輸入して、彼らから習うために語学を教えて、くらいまでは上手くいってたらしいんだよ。
まあ、必要なところに必要なものをっていう発想でしかないしね。
大学を作り上げて受験させたらほとんど成人、というか40歳くらいが普通にみたいな合格者群となったそうですうろ覚えだけど、こんな展開忘れにくい。
なぜならば、日本には学校制度がなかったからです。みたいな。
というか、東京帝大は米国を越え、欧州に比肩するようなレベルの大変高い学校で、誰も辿り着けなかったんだって、すごく面白いんだけど笑っていられない。
というより、独学でそれだけやってる人がいたってのが江戸の底力って気もしないでもないものの、そこに頼っているわけにもいかず。
 
まず正しいレベルに合わせて小学校は作ったらしいんだけど、大学まで接続するまでに施行錯誤でじったんばったんしました、というのが露伴先生とか紅葉先生辺り見てると年表にすでに表れてるので見てあげるといいと思う。
ただあれ、どこからどこまでが同じ学校かよくわからないから困る。
漱石さんはなんか学業の天才だったみたいで、あまりの優秀さに道が開けたぽい。

7月15日めも。

近代の学制の話、ただし私の知識は今の時点でかなり継ぎ接ぎで。
ストレートで進学したのって、芥川と久米さんがそんなこと言われてたんで知ってるかな、という程度なんだよね、あと、同じクラスの最年長が23歳(どの時点だったか忘れたけどそう表現してたので覚えた)の菊池さんと井川さん、とはいえ、特に馬鹿にされてるような様子もないです。
どっちかというとクラスで目立つ人って挙げてくとまず大抵この4人からなんだよね、で、芥川と井川さんが親友として対で秀才組として、菊池さんと久米さんがやんちゃ組ってことで別けられてて、あとは菊池さんの親友とか久米さんの親友とか、他に彼らと一緒に遊んでる人たちが名前出て来る感じで、とにかくこの辺が中心。
多分ですけれども、地方から一高に入るというのがそもそも制度が整っていなくて大変ということで、それはそれで能力の高さを示してたんじゃないかなぁ?
他の時代見てても歳が上だからって馬鹿にされてるような様子はほぼないしね。
芥川と久米さんはわりとするするって昇って来た感じっぽい。
それとも単純に儒教的感覚で年上には逆らわないってのはあったのかなー、ただ、歳が上だから立場上ってわけでもないんだよね、なんとなく敬されてる感じ。
 
とはいえ、あくまでもいろいろ見てる範囲での話なんでわからん、年上だから馬鹿にされるとかはない、というのは、学制があれだけ揺れてればそんなに無理もないこととしか思えないけどね…さすがに。
菊池さんの成績がどうとかは知らんのですが、まー、地方から出て来てあれこれ学校渡り歩いて最終的に支援が付くから、悪いとはさすがに思えないんだよね。

7月16日めも。

ちまちまのラスト、今まで名前聞いたことがあるのって言うと明治女学院? あと、明治大学って菊池さんの本では書いてあったけど、大正9年じゃないので多分明治学院なんじゃないかな…、と思ったら別の学校でした、本当にすみません。
というか明治36年に「専門学校令」で明治大学を名乗ってるので余裕だわ。
事実上の大学として認められてたってのも一応ちゃんとしたところで見たんだけど、正直時期がいつかは不安になってまいりました、てか、専門学校のことを大学と呼んでる例って多分結構あるんだろうなぁ。
大学と名乗るのと「大学への昇格」が別物だったなんて、罠が…。
えーと、菊池さんがなんか籍だけ置いて授業出なかったみたいなことをどっかで読みましたが、これがところによっては早稲田大学になっていることもあり、ただし早稲田大学には授業出来ててそこで広津和郎さんに出会ってるらしいんでどうもそっちが正しいようです、どうも宇野浩二さんもいたらしいけど記憶に残らなかった模様…(広津さんは社交的なのよ、まあ、実際そんなに長居しなかったのかもな)。
そもそもなんでそんなに記録がぐちゃぐちゃなのかもよくわかりませぬ。
学校制度がごちゃごちゃなせいではないよね、菊池さんのは…はははは。
 
まー、学校中退者が他の学校で教師やれたりとか、だいぶあれだよね(藤村の学歴は忘れたけど年上の女学生に教えてたし、鏡花は中退で英語教師、とはいえ、四高受かったならならまあエリートじゃないかね、学業成績じゃなくて家計の問題よな)、ややこしいっていうか幅が広いっていうか。
いまだにどうまとめればいいのかわからんっていうか、多少は埋まったけど!

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