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ゲーム:刀剣乱舞、その35 のバックアップの現在との差分(No.7)

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*ゲーム:刀剣乱舞、その35 [#gc090c59]

***12月20日めも。 [#p374317a]

『出雲国風土記と古代遺跡』日本史リブレット013読了ですの、まあ書いてるのは新年明けての1月2日ですが、読み終わったのは12月の半ばくらい? しばらく文章書くみたいな機能が死んでいました。
すごく大雑把に、えーと、多分最初に銅鐸の大量発見があったのかな。
どうも昔から出雲系の土地に銅鐸が存在しているのではないか、というようには目されてはいたものの正直「これ」がなんだかわからない、というわりと重いハンデが存在していたので推測するくらいしかなく。
で、確かだけど出雲自体からは見付かったことなかったんじゃないのかな。
見付かったら見付かったで、いまだかつてないほどに大量、積み重ねられてなんか出荷前みたいな勢いで同じ型から抜き出したみたいなものまで一気に出てきた、みたいなそんな顛末だったんじゃなかったかな。
そのあとに銅剣が見付かって(どっちも偶然だったはずだけど、前の発見があったら出てきた時点であー、という納得くらいはあったろうね)、で、その辺で真面目にひょっとしたら出雲にも文明あったんじゃない?! みたいなノリで探し出されたのが出雲大社のとこにあったという「異様にぶっとい柱の跡」なんじゃないかなー、と思ってるけどなんか間違ってるかもしれません、順番はこれでいいような気もするけども。
これ書いてたらどうしても気付くんだけど、出雲大社に痕跡あったんならもっと早くに気付けても良かったよねー、要するに存在ごと舐め腐っていたので見つけられなかった、みたいな話なんでしょうね。
 
で、なんだ、でも「風土記」なんだよ本は、ようやっと真面目に分析かぁ…うん。


***12月21日めも。 [#f0169f72]

『日本の美術6 刀剣』佐藤寒山・編、で読了でーす、いつも著者名を削っているのは入れてしまうと検索で出てきてしまうという理由があるんですが、出てきても気にしない! というすごく古いものや決まった著者さんの場合はこんな感じで。こんな感じで。
ええと、以下読んでた当時のついーと。
「64p、大典太 光世の項目で童子斬安綱、三日月宗近、一期一振吉光、数珠丸恒次とともに天下五剣と呼ばれた(前後若干の略)。とある出典はなし、佐藤寒山氏は刀剣業界では重要人物。前にも一回一期一振が天下五剣に入ってるの見たことあるな」
 
てか、そもそも時代で違ったとかも見たことあるんですけども、なにに載ってるのとか、そもそもこの「天下五剣」ってなんよ、とかがよくわからない。
まあきちんと数えてみると5振り以上あったよん、みたいなこともよくあるのでそんなに気にするものでもないのかもしれないですけどねー。
あと面白かったのが【平野藤四郎】について、ああ、やっぱり藤四郎吉光の最高作って言われてるの平野なんだね(一期一振は別カテゴリみたいなところあるし)。
てか、徳川家に差し出した「享保名物帳」では【厚藤四郎】が最上位だったっての、なんかこう、なんだろう、前田家のほうが安全だと思ったんじゃなかろうな…。
それと【山姥切国広】に関して載ってたのは他にもあったんですが、こっちのほうが詳しいんじゃないのかなぁ、まあ、いわゆる本歌? の刀見たことないんだけどねー、これも刀工最高の出来って言われてるのか、ややこしい立場だよなぁ正直。
あと巻末に前から言っていた三条宗近と藤四郎吉光の刀は特に悪意のない贋作があるよ、というのがはっきり載ってました。まあ、そうだわな、3百振りだしな。


***12月22日めも。 [#a3e96742]

『石造物が語る中世職能集団』日本史リブレット029読了、あれですね、東大寺の炎上(源平)の後の復興事業のために大陸からやってきた伊行末? だっけか、石工集団がいまして、だいたいそういう近辺の話だったんですが、これが鎌倉の要するに初中期くらいから鎌倉末くらいまでに活躍して、その後消えてしまった、らしいんですが。
どっかで聞いたよね、これ、多分若干始まった時期は早いんですが、刀工の粟田口派がだいたいこんな感じだよなぁ。
てか、そこで作られてるものがどうも独占事業っぽかった上(中央で活躍しているのを伊派、鎌倉や箱根の東国で活動しているのを大蔵派って言うらしい)、その後の日本の意匠の中にも見事に取り込まれているのでなんというか消滅したようにも見えない。
要するにどういう変化をしたのかなぁ、と読みながら考えていたんですが、あるいはこの辺は石造物の歴史そのものを辿れば出てくるのかもねぇ。
 
本の中では中国のどの地域の出身であるのか、どうも僧侶がよく留学していた地域とは違うっぽいなとか、そういう感じのところにも触れていたものの、要するに日本に渡って来たのはあくまで大陸の技術の一系統であり、日本に渡って来てからしばらく経ってのちに日本ナイズされていった、と受け取ればいいんじゃないのかなこれ。
私はどっちかというと中世というそもそも職人そのものが(実はこれ、今と意味違うらしいんだけどね)現れた時代の職人のあり方みたいなところが読みたくて手に取ったものの、「また東大寺か!」というのは否めないし、なんで分派が大蔵派なんだよ、それ日本の省庁の名前だろ!! みたいなところも気になります。気になるよね?!
てか、石工ががっつり作品に名前残すんだよね、地位や考え方も知りたいなぁ。


***12月23日めも。 [#w0210ba2]

『趣味どきっ!開け!世界遺産』#4「金閣寺・銀閣寺」、で、NHKのEテレにて放送中(てか、地味にこのEテレって言い方が通じなくて結局教育テレビって言う嵌めになるんですけどね、どういう意味だろEテレって)。
ええと、さっきまで第6回を放送してました。
そうそう、この放送のまとめが微妙に書き辛いのもちょっと別の事情で毎週火曜日を費やしていたせいか、で、第5回が石見銀山と醍醐寺、第6回が富士山で、第6回は来週に再放送があるのでもう1回見れるかな。
一応第5回も2度見てるのでなんとかなるとは思うのですけどもねー。
 
で、正直なところあんまり放送をきちんと覚えていなかったので、こっちの柔らかめの内容でもいいほうを先に書いて、ブログ用のものをあとにしようかなと思っていたものの、なんとなく金閣寺や銀閣寺のデータを見ているうちに薄らぼんやりと思い出せたのでそちらに転用しまして、とりあえず3代将軍義満と8代将軍義政が祖父と孫だったかどうかを確認していたのですが、あ、やっぱり勘違いじゃないな。
てか、6代義教の時点でまだ親子だったのか。
要するに兄弟相続が4代、5代、7代とで行われたって意味だよね、本当にヤバいな足利将軍家。まああれ、どっかで年数を稼いだのかなー、とは思うんですけどね。
でも初代から3代くらいまでの間、南朝の存在もあって安定してなかったんだっけか。
あと、今まで結構銀閣寺は「書院造」に関してメインで触れられていることを多く見ていたように思うんですが、確か庭作りだったんだっけか。まあ、建築の本見てもそこまで重要視されてなかったようだしなぁ、ちょくちょく重点って変わるのね。


***12月24日めも。 [#z003758c]

『古代・中世の女性と仏教』日本史リブレット16読了、あれですね、正直中世仏教を読んでいるとちょくちょく出会う「女性に生まれた段階で重罪、地獄に落ちる」という教えが目の前で出来上がっていくという流れはそれなりに慣れていたんですが(他国の仏教になくてももうちょっと古いならともかく、中世で真剣になれるかww)(なんらかの宣伝や政治的理由なんだろうね、今後はその動機部分も研究進むんじゃないかな)。
そもそもどちらかというと神道においても女性の地位のほうが高く、その関係で尼僧のほうが先に主導権的役割りを担っていたんだよね、というのは初耳。
ここの働きがあまり重要視されていないのは正直仕方ない部分はあるとは思うんだ。
「女性に罪がある」というのは日本仏教に限定なものの、もともと仏教は修行の場においては女はそんなに地位高くないらしいしねー。尼僧がその役割りを狭めていったよ、というところまではある程度自然な流れって気もするしね。
で、そうして地位が低いからこそ、変化のきっかけになり続けることがある、というのもわりと宗教においては典型的な流れだしな。これは女に限らんとよくあったし。
 
が、そこはそれ、これはこれ。
なんだよ女性の罪って、なんで地獄に落とされるんだよ、なに考えてたんだ中世ww というのがやっぱりちょっと不思議だよなぁ、血の穢れっていうと神道にはちょいちょいそういう逸話があったように思うんですがそっちからの輸入なのかなぁ。
女性蔑視とか男尊女卑とかそれが間違ってる、という視点が現代的にはどうしようもなくあるものの(もしくはそれを庇うような動きもあるにはあるものの)、なんかの事情で展開してたって研究が進むほうがさっぱりしてるよな。なんだったんだろうね?


***12月25日めも。 [#w2b7774b]

『日本の美術66 古代の瓦』読了ですよ、正直なところ疲れたよパトラッシュ(というネタがいつくらいまで通じるのかわからないけどそもそもよく考えたら私『フランダースの犬』のアニメ本編見てないよ)。
ものすごくぶっちゃけると日本には木材は潤沢で、もともと高床式であっても木造建築の技術はあったので中国からの技術の転用がしやすかったのであろうものの、瓦に関しては少なくとも整形して焼き上げるまでの専門家が必要だったので一般的になるまでにちょっと時間が掛かった、ということではないのかなと認識しているのですが、今後この辺を誰かに聞けたら聞きたい誰だ専門家。
で、なのでまあ、結構瓦が再利用されてるんじゃないかなー、と思っていたのが確認出来たのが嬉しかったです。あと、一応どの寺に入れるかということが決まっているらしい印があるにも関わらずたまに別のところにあるとかそういう話もちょくちょく。
 
それと法隆寺の謎、として聞き流していた話が「現地の瓦で型を取って再度作った瓦があんねん、なんかおかしいやろ」と言われたら納得! 超納得!!
最初からそう説明してくれていたら話が死ぬほどわかりやすかったのに。
記録には残っていないものの、再建じゃないかな(再建するような事情はまああれだ火災だろうね、地震であってもおかしくはないけどそれならさすがに記録残っとるわ)、という前提で喋る人がいるという特有の事情もわかるねこれだと。
ていうかやっぱり物が残ってるの強いよね、ただ、それをきちんと分類するには瓦の意匠が微妙、これ見てこれすごい! とか本の真ん中にまで解説がはみ出るようなパッション溢れる学者じゃないと駄目なんだな、としみじみと思いました。瓦やっぱり面白いな…。


***12月26日めも。 [#f5b3d327]

『京都洛中散歩21コース』京都史跡見学会の読了、大雑把に京都近辺(奈良とか近江とか)(地名の時代が違うよというのは気にしないで下さい読んでいる本の関係で)の地形を把握したいなー、ということで手に取ったのですが。
『京都洛中散歩21コース』京都史跡見学会・編を読了、大雑把に京都近辺(奈良とか近江とか)(地名の時代が違うよというのは気にしないで下さい読んでいる本の関係で)の地形を把握したいなー、ということで手に取ったのですが。
やっぱりこの手の本だとちょいちょいあれがあるね、トリビア。
で、以下が読んでる最中に抜き書きした内容。
「京都の本読んでたら6代将軍の逆鱗に触れた鍋冠り上人日親(なべかむり??)が投獄されたところ、ちょうどそこに同じ理由で投獄されていた本阿弥清信がいて意気投合、その援助で作られたのが本法寺、光悦関係のものがたくさんあって本阿弥家の墓もあるよん、と聞いて本阿弥ってやっぱり、と思ってる」
「前に本阿弥光悦の本読んでたら「徳川家康に疎まれて不便な土地追いやられたんだ」的な発言されていた人がいたんだけど、今年表見てたら大坂夏の陣(4月)の1ヶ月後(5月)のことで、ちょっと調べたら「京都七口の一つ、鷹ヶ峰」だったので…正直絶対とは言わないんだけど違うんじゃない…かなぁ…」
 
上の内容が寺のところ、下の内容が巻末にあった年表で見たんだけども、そんなに知名度があるとは思っていなかった本阿弥家に関して年表や話の前提にするという時点でなかなか土地柄出てるな、という気がしないでもないね。
あとはまあ、正直存在くらいは知ってるみたいなものが多かったかなぁ。
どっちかというとちょくちょく俗説が反映されていたのが土地のパンフレットの延長上だな、という雑感。その土地で起こったことに関してだとともかく、人物関係だと結構俗説反映されてしまうんだよねぇ。


***12月27日めも。 [#df464593]

『天下の副将軍-水戸藩から見た江戸三百年』読了ですよん、まあすごくざっくり燭台切さんのお家だったらしいからねー、という理由で読んだのですが、なんか、なんだろ、水戸黄門さまっているじゃないですか、印籠持って諸国を漫遊したという2代水戸藩藩主さま、あの方って諸国は漫遊してなかったものの、かなり当時から特別な人だったんだな、そうだなよく考えてみればだからこそ伝説が作られたんだしな、と納得。
副将軍なんて地位はなかった! というのは事実だったものの、他にも副将軍を自称する人物なんてのはいて、結局水戸家だけが民衆からもそう思われるようになったんだよ、そもそもこの家には参勤交代が義務付けられてはいなかったんだよね、というそんな家であるにも関わらず幕末には「尊皇攘夷」運動に関わった藩主が。
しかもその藩主の直近の血筋から徳川将軍が、みたいなことになってるんだね。
あんまりその辺の興味で読んだのではないので割愛です、いやでも、だいぶ特別な家なんだなぁというのはわりとしみじみと。
ただ、特に実際の石高は高くなかったのになんか高く報告したので年貢が大変だったよー、みたいなことも言われてました。
なんかこう、すごくご苦労さまだよね、常に特別なことはわかるけど、正直印象がとっ散らかってる。目立つけどなんの家かってのがいまいちまとまってないww
 
正直このお家がどの段階で伊達政宗から刀(【燭台切光忠】)を分捕っていったのかがすごく気になります、初期の頃に副将軍を名乗っていた中にはそもそもこの伊達政宗もいたんだよん、と言われて「ほえー」となってたよ。
てか、この出来事は記録が限られてるけど史実扱いでいいはずよね確か。


***12月28日めも。 [#oc2067f2]

『趣味どきっ!開け!世界遺産』#5「石見銀山・醍醐寺」、日付けが完全にデタラメになってはいるものの、さすがに放送よりもあとの日付けにしよう、と思いつつ、それが何日だったのかを確認するのが面倒なので適当に温存しておくつもりで行数を合わせています、この妙に量が決まっている書き方は、かつてこの手の文章を書き始めた時のメモ帳の「一枚分」であって特に深い意味などは全くありません。
(だいたいテキスト1Kバイトくらいかな、とは思ってるんだけどね。)
 
まあまず石見銀山は実は結構な産出量だったので世界経済にも影響を与えたんだよん、とか、植林をしながら銀採掘をしていたのでわりと現在も周囲に自然が残っているんだよ、などということが紹介されていたんですが、どうもその辺は山岳信仰系に近いところに技術(というかノウハウの口伝)があったためなんじゃないかなー、と思ってるんですがどうだろ、この地を手に入れたのは毛利元就だったらしいんですがおかげで周囲の地域を平らげ、財政によって天下を動かしたきっかけになった、みたいに言われていたと聞いていたんですが正しかったかなこれで…。
で、豊臣秀吉が手を入れたという醍醐寺が出てきまして、「醍醐の花見」のあとから援助が来るようになったんだよー、て言われてたんだけどもあれこれってやたらと有名な花見のことなのかな?
なんだっけ、天下人としての威信を示したみたいなことが言われていたっけか。
醍醐寺ってこれ、名前の通りに醍醐天皇が発起人なんですね、お寺の場合はあんまり作った人の名前聞いたことがなかったのでちょっと新鮮。
あ、そうかそうか、この2つをつないだのって国外貿易で勢力伸ばした要因か。


***12月29日めも。 [#k14c88b1]

『京都洛西・洛北散歩22コース』京都史跡見学会・編を読了でーす、というかこの本実は図書館に返しに行かなくてはならなくて、あと1時間半くらいしか時間がないんですけどもね(リアルタイムで1月22日です、そこまで離れてるとそろそろ数日分くらい抜いてったほうがいいかなと思ってるけど、年末までは3日なのでそこが済んでから考えよう)。
で、なんかもう急いでるのでさっきまで書いてた本のレビューと丸被りになる感じなのですけども、山が多い、ていうか、市から山への入り方がなんか結構急。
地図見てみたら海まであとそんなに離れてないはずなのに海への言及が妙に少ない。
この洛北の山ってひょっとして結構標高あるの?? と思いながら見ていたんですが、それはこのあとで読む予定の凸凹本で読んで行けばいいかな、出来れば地元の人にも話聞けたら聞いてみたいんですけどねー。
あとあれ、洛西は大雑把に近江(滋賀県)ですね、よく見たら琵琶湖ってかなり近くにあるやん、としみじみしてる。前に近江に作られた都の本なんてのをちょくちょく読んでいたんですが、地形依存の部分も結構ありそうだなぁ。
てか、五山十刹がどうの、という話は前からちょくちょく読んでいたんですが(大雑把に五山ってのは禅寺のこと)、そういや鎌倉と京都に五山制度があったってのは、北に山を配置した土地が都に向いているという意識があったってことなのかしらひょっとして。
 
いやまあ、今の時点ではさっぱりわからずにざくざく読んでるだけなんですが、神社が市内にあって、寺が一旦排除されたこともあるにせよ山がちの土地にあったってのは、多分そこまで勘違いではないんじゃないかな。
てか、八幡神社関係って山の土地にはほとんどないのね、水の神だっけかこれ。

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