本当は時代ごとでタイトル変えたいんですが、現状だとちょっと支障があるので暫定、タグなし。
記事名を変えて障害が残らない、タグがまともに機能することがまず必須なので、駄目なら引っ越し予定。
少しずつ項目が増えていって、量が増えるようなら独立するような仕様です。
…まあWikiというより現状だとただの公開メモ帳です、まともに機能してくれるといいですね…。
信長サンの年表。 †
(今の時点だと松永秀久が分厚いよ気にしないで!!)
・桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)5月
今川義元が討ち取られ、【宋三左文字】が織田信長の手に。
「義元左文字」って呼ばれてることもあるんだけども、宋三左文字です! って人たちいるよね。
(多分ゲームもその派閥の人たちの意見を入れたのかと。)
でもなして??
・足利義輝(13代)の殺害。
永禄8年(1565年)5月19日
ここで【薬研藤四郎】と【骨喰】が松永秀久のもとに行ったはず(寺にあったらしい)。
三好三人衆ってよく聞くあれ。足利将軍に手を掛けたのは松永秀久ではなくてその息子。
・東大寺大仏殿の戦い
永禄10年(1567年)4月18日から10月11日
大雑把に松永秀久と三好三人衆(三好長慶死後の三好家有力者の集団)の戦い。
なんで東大寺が巻き込まれたのかあまつさえ燃やされたのか。
まああれですね、松永秀久が治めてたのが大和国で、東大寺大仏殿の向かいの山に「多聞山城」っていう彼の根城があったらなんだけどもね。
でもわざと火を付けたとかはないだろ、大仏燃やして戦況のなにが変わるの延焼だろ?!
ただ、延焼の責任は松永秀久氏でいいと思います、もうちょっと城の位置考えろ。
・足利義昭(15代)の京都上洛。
永禄11年(1568年)9月
織田信長がその後ろ盾になった件、14代足利将軍どうしたんだっけかこれ。
この時に松永秀久が織田信長に「九十九茄子」と呼ばれる茶器を献上(贈呈?)。
どうもその時に以前に薬研藤四郎を贈呈したことに言及してるらしい、これより前は贈呈だろうね。
で、松永秀久が織田信長に連絡を取り始めたのが永禄9年くらいからなので、まあそのあとくらいかな?
九十九茄子は足利伝来の茶器っていうけど侘茶始まったの東山文化の時代だったね??
足利義政(8代)の時に山名氏の手に渡ってからわりと転々と、松永秀久が手に入れた詳細は不明。
・織田信長と松永秀久の対決…。
元亀3年(1572年)~翌元亀4年(1573年、天正に改元)4月
松永秀久その他でまとまってること多いけど、足利義昭(15代)勢と織田信長の対立ってほうが筋通る。
松永秀久が負けた時点で東大寺の大仏殿の向かいにあったという多聞山寺も信長に引き渡し。
多聞山城ってのは最初に「天守閣」が作られた城らしいよ。この後破壊されたらしい。
まああれだ、東大寺大仏殿の向かいだしね、あると危ないからね…。
・松永秀久の自害
天正5年10月10日(1577年11月19日)
この時点で信長裏切って数度目って触れ込みだけども、(足利義昭を)裏切ったの信長のが先だな?
丸亀4年の段階で信長に臣従したということになるようです、降伏ってほうが正しいか。
・本能寺の変
天正10年6月2日(1582年6月21日)
織田信長ファイアー。よく燃えました、てか、遺体が見つからないって結構壮絶。
薬研藤四郎の焼失の場合はこの時点(私はこれ寄り、他の説の年表は入れない)。