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雑記:とうらぶその他、65 のバックアップ(No.2)

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雑記:とうらぶその他、65

11月19日めも。

『僧侶と海商たちの東シナ海』選書日本中世史4の読了なのです、そういや家人のパソコンに入れていた本のレビュー分がやっと回収出来たので若干読んだ本の順番が前後していたところがあったような気もするんですがまあいいや別に直すほどのことも全く。
(というか気が向かないと見直さないので文章もなかなか直りませぬ、でも最近はマシになったのよ、昔は一発書きがまず出来なかったんだよね、あとから修正しないとまず駄目っていうかとにかく主語が抜けがち。)
 
とりあえずまあ坊さんの中国渡航の本なんですが、重源が多分遁世僧の系譜だよねー、みたいなことをさらっと言われても。
やっぱりジャンル超えるといろんなもの拾えるよねぇ。
なんとなくこれ、仏教の内部の人だとめっさ読めるのが遅れた気がします…びっくり。
あとあれ、栄西の系譜がわりと禅宗をメインにしたため中国での修行が主になっていて(日本だとまだその準備整ってないしねー)、というところまではあんまり驚かなかったんですが、結局この系譜が東大寺の大勧進の地位を占めたってどういう意味だ。
前に別のところで勧進職(寄付募る人たちですね)は油蔵という備前にあったという領土を支配する機関から人材を得ていたみたいなことを聞いたんだけど、そことはどうやって合致するのかなぁ、いまいち備前の地位がわからない。
この本ではあくまでも記録に残ってる許可取ってる僧しか把握出来ていなかったんですが(無理もないよね)、前後の記録見てると勝手に行った人らはいたろうね、みたいな、で、若干は無許可と許可の狭間みたいな僧侶もいるよねっていう。
というか海商って言われてた人らを支えた日本側についても知りたいよなぁ。

11月20日めも。

『寺社と芸能の中世』日本史リブレット080の読了なのですよー、そろそろ風呂に入らないとならないので火を付けてくる所存です付けてきました、で、たまたまなんとなくなんで借りてきたのかをさっぱりと忘れてしまったんですが、えーと、あれだ、職工と近い存在として芸能も位置してる時代だったからじゃないかと思います。
中世の初期くらいまではこの辺の特殊技能者が一緒くたで、中世の終わりくらいまでに少しずつ分離していったみたいな感じで語られていたんじゃなかったか。
そして借りて来てみたらどうも興福寺と春日社がメインで語られていたんですが、興福寺の内部の院が対立を起こしていてそれぞれが猿楽の座を呼びたがるので大変だったよー、みたいなことが単純な事実として語られていたんですが。
猿楽がこれよりもかなり前の時代に成立してるんならそんなに疑問はないものの、正直本の中でも触れられていたように素人がやってるのがメインだったりするんだよね。
芸能集団として成立したのすらそんなに前というわけでもなさそうなので、なんで揉めてんだよ? というのが院という単位で見えていないのならば、院をそれぞれ支えていた貴族のそれぞれの家のほうに事情があるんじゃないのかなー、という気も。
というか下手すると、院と猿楽集団が親類関係って可能性すらあるよね。
(職工が独立した家になってったのも要するに多分このあとで、別に貴族が貴種であるという意識も当時は薄かった可能性が結構あるのですよ。)
 
というのもあくまで外側から見た雑感なので、もうちょっと猿楽や田楽に関しての本も読んでみるかー、と思ってるのですが。
足利3代の義満も猿楽の世阿弥を連れまわしてたし、それなりの出でもおかしくない。

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