Top / 雑記:とうらぶ・文アル他、79

雑記:とうらぶ・文アル他、79 のバックアップ(No.1)

Last-modified:


雑記:とうらぶ・文アル他、79

4月18日めも。

リアルタイムで10月13日、以下本文はスマホで昨日打っていた分です。
ところでだいぶ眠い感じですが夜まで我慢…(ぐー。
『日本文壇史』をただいま3巻まで読み終わっていて、4巻が手元にある感じなので、若干混ざる可能性もあるけどもだらだらと1巻辺りからの復習みたいに思い出す予定です。
というか、こういう文章初めてスマホで打ってるんだけど、なかなか予測変換が使いこなせないのでちょくちょく間違えてたりもするかもなぁ。
なんとなく数年来同じくらいの行数文字数で区切る癖が付いてるんですけども、これは一旦区切ることで制約付けるみたいな意味です。
人には大したどころか全く意味はないと思うよ!
(自分にとってだけ意味があるやつ、40行33文字です、真面目に半端。)
で、スマホだとその設定が出来る方法がないのでだらだらと打ち込んだあとで無理やり直してく感じです。
 
ところでこの日本文壇史の1巻を読むちょっと前に新聞の歴史の本を読んでいたところ、まず日本の幕末の情勢と文化レベルみたいなところから始まったんですか、まあ考えてみれば当然というか誠実な態度だよね、読む人間というか、必要とする人間が一定数いない限りメディアは生まれない。
ただ正直他の文明の利器の歴史はまず理解されるところから始めることが多かったのでちょっと不思議だったかも。
すでにメディアという存在に慣れた場合にもっと質の高いものを、という展望で作られたメディアがちょうど他の文明開化に近い感じかもなぁ。

4月19日めも。

前日分からの続き。
で、日本文壇史のシリーズも若干それ(>新聞の歴史で背景の文化面から説明を始める)と近いようなところがあって、なんというかメディアの誕生の辺りから扱ってるんですよね、まああれ、実際のところ江戸時代のかわら版みたいなところから始まってる感じなんだけど、その場合、当然内容も限られるもんね…。
ところで私、馬琴さんが近代まで生きていたって全く存じ上げませんでした…、あの【文豪とアルケミスト】でも出てくる坪内逍遙さんと同時代に魯文さんているんですけども、なんでか名前知ってるんだけどもしかしたら大層売れたという福沢諭吉さんの本のパクりのせいかもしれんみたいな、腕はいいのにいまいちちゃんとした仕事してない印象の人がいるのですけども、繰り返しますけども腕はいいです。
この人が馬琴さんの死をお見送りしてたので…びっくりでした(確か文壇史の1巻かな)、挙げ句にこないだドラマ見てたら馬琴と北斎とが会話してたんだよ、時代が頭の中でぐちゃぐちゃだよマジで…。
逍遙さんだと若干古い時代と関わっていても違和感薄いんだけど、ほぼほぼ活躍時期が森鴎外さんと似たようなもんなので…鴎外さんには近代以外のイメージ全くないよなぁ、正直なところ。
 
じゃなくて、まあ新聞の歴史がそれ以前の幕末の事情から始めていたのと若干似ていて、小説などの登場ではなく文字媒体の誕生から『文壇史』が初めていたんだよということが言いたくてだいぶ暴投していた感じなんですが。
みたいなところで以下、次号分、全然話が進んでない。

4月20日めも。

前日分からの続き、近代の文壇を語るのにまず文字媒体から語り始めてる、の話。
ただこれ、それでも娯楽の誕生みたいな意味ではこれでも足りないみたいなんだよね、どうも、多分ここを補うのが舞台芸能を扱った文章じゃないかと思うんですが、まあこれはいいや(青空文庫でわりとちょうどいいの見つけたんですけどねー、まだ自力でリンクして語れるほど噛み砕いてないからね)。
あと、どこかでも指摘されていたんですが一時期は確実に国内の文化を担っていたはずの翻訳に関しての研究が薄いのだということも言われてまして、あー、、実際この本でもそう感じないでもなかったなぁ。
それと、原書で読む人がそれなりに無視出来ない程度に存在していて、その中にも流行り廃れがあり、少なくとも書き手に対しての影響はありそうだな、というところまでは語られていたものの正直そこ止まりで分析に至らず、原書読んでる人らの存在に触れた程度で終わってしまっている感じでちょっと惜しいのかも。
あれ、芥川とか菊池さんくらいの世代なんかでもちょくちょくあっちの本読んでる人混ざってるよね、翻訳もそれなりにある感じなものの、好みの本がないみたいな気楽な感じで読んでたよなー。
 
てのもまあ、まただいぶ違う時代の話なんですが、明治初期から大正に突入するくらいまでそれなりに他国言語の本を読む層がそんなに珍しくもなさそうとは言ってもいいんじゃないのかな?
彼らよりちょっと下の世代だと翻訳メインになるのは間違いないものの、そこ(大正初中期)くらいまでか、いや、天下の一高生だと基準になるか微妙か、どっちかなぁ。

4月21日めも。

さらにだらだらと続き。
いや、これ(>各国の原書を普通に読む人間が文化人に一般的だった時代がいつくらいまでかなぁ)も文壇史(本の)とは関係ないわけですけども。
ところでまた関係ない話なんだけど、「日刊新聞の最初」って認可の関係で東京日日新聞って言われてたのが、どうも横浜毎日新聞というのが一般的ぽくなってるんだけどどこが変わったせいでそう区切るようになったのか知りたい…。
あとあれ、どうも朝日新聞とか都新聞とかごちゃごちゃしててわかりにくいので、経営観点で説明した文章が欲しいですね…、合併って両者のプライドが関わるからとにかくわかりにくいんだよな。
さすがに文壇が全く関係ないですねそうですね。
一応あれ、『日本文壇史』の1巻で延々延々と新聞の歴史読む嵌めになったってのはあるんだけどねー、まあ、覚えておくのは読売新聞が小説でまず人気を得たんだよー、とか、有力な新聞に東京日日とか朝日とかあるんだよとかその程度でいいんでないかな。
さらに言うとまだ朝日新聞って1巻では出てこないけどね!
 
ただ、後藤新平だっけ誰だっけ、教育が進まないなら小説載せなさい的に助言受けてたのって、で、そんなこんなで小説が新聞に載ることになったそうなんですが、どうもその時点で経済小説などのガチで教養に直結するものを選んでいたらしく、個人的にはあれだよね、その時の庶民レベルにあった小説読ませとけって意味だよね?
経済を勉強したい人たちはまあ、あったらありがたいだろうけど、なくても自分で努力するだろうし、正直響く人だいぶ少なかった気がするんだよね、で、続く。

4月22日めも。

文化レベルを上げるためには、新聞に小説載せるといいよ、というお勧めを海外からされてたんだよん、みたいな話の続き、それを素直に聞いて経済小説を翻訳して載せていたそうなんですが、特に反響とか影響は書いてなかったんだよね(いや、ありがたい人は実際いたとは思うんだけど、賢い人が少し賢さを増しただけだった気がしてならぬ)。
個人的にはこれ、独断と偏見でいうと、大衆小説が一番教育になる気がするんだよね…さらに言うと勧善懲悪よりもゴシップもどきのほうが…どうも、作品単体で優れてるかどうかは全く別として、水準底上げの教育って意味だとなぁ…、と。
 
だいぶ上のほうで名前を出した「あんまり真っ当な仕事してなかった印象のある魯文さん」て、そんな表現をしていたものの、そういう意味では多分そういう部分担ってたんじゃないかとも思うんだよね、教育レベルの底上げには一番役立ってたんじゃないかなと…。
福沢さんの本をパクってバカ売れして(欧州に行ったこともないのにコミカル仕立てで書き直しっていうか、欧州膝栗毛っていうか)、追随作品が出た頃には「こんな低俗な物もういらん」って言われていた辺りとか特にそんな感じの…。
すざましいと思うんですよね、パクり一作書いただけで世間に本物の情報が欲しいと思わせるまでに至っているという。
ところでついでにちゃんと調べてみたんですが福沢諭吉氏の本は『西洋旅案内』で、魯文さんの本は『西洋道中膝栗毛』だったそうです、多分私、説明文まんまで覚えてたんだと思うんだけど、それにしてもまんまのタイトルだなこれww
まああれ、これこそ黎明期って感じですけどねー(*´∀`*)
この辺の解説本ちょっと読みたいんだけど、まあ、現代人には面白くなさそう。

4月23日めも。

何日分前からの続きだっけ? 福沢さんの本と魯文さんの文明開本の話。
魯文さんいなかったら、なんというかもうちょっとそこのスピードが遅かったような気がしてならないし(ちゃんとした情報を寄越せー、という欲求)、翻訳本がこの後ぽつぽつ現れていくのもなんかこう、なんだろう上手く言えないんだけども、福沢さんのちゃんとした本だけより、なんというか広い層が反応した気がしてならないし、ちょくちょくそれ自体はしょうもない作品が読み捨てられて次の段階に進んだような気がしてならないんだよね。
ところでこれなんの話だっけ、まただいぶ脱線してるんですが。
ただ、あれ、本の内容そのものではないものの、どうしても時代に合った作品より「芸術性の高い」系統が偉いかのように言われていく風情が全体的に気になっていないでもないかなぁ、と気になってるのはあるのかも。
すごくたまに、作品単位の価値と売れるものが両立されることもあるんだけども、時代を越えて残るってのはそういう意味が多いのかな。
個人的には芸術性が高いどうのこうのはちょっと苦手ですかね…。
あのあれ、他人を押し退けて慎ましさを大声で主張するみたいな不気味さを感じます…、俺は売れる作品を書いたから偉いんだ、のほうがむしろマシな気すらする。
 
んにゃ、こういう風潮って歴史を縦に語る本だとそんなにないんだけど、たまに強固な意志で貫いて語る人がいるので(そらもうしっかちゃかめっちゃかに…)、こういうちゃんとした連続した時間を見てるとなんか思い出しちゃうんだよね。
やっぱりその時点で重要だったものを順番に並べて欲しいんだよな、歴史なら。

4月24日めも。

芸術性がどうので裁定するのは、歴史では止めて欲しいんだよねー、生臭いから(趣旨は近いけど表現が全然違うけど)、みたいなことの続き。
ただ、実際に『日本文壇史』で見たみたいな(3巻だったかな?)、弟子持った作家さんなんかが挿し絵付き新聞連載とか書くと低く見られるから書かないよ! みたいなこと言ってる分には全く気にしないです(´~`)
あるよねー、そういうの、わかるわかる。
こういうのが売れてるのは否定しないけど、僕はちょっと…、もありです、むしろ親近感ばりばり(かなりいろいろ読めないからね私)。
同じ時代に扱い低いからイメージ悪くしたくないよねっ、てのはいいのよ別に。
あとから辻褄合わせて勝手に作り出す、後世の感覚による今作った新事実、みたいなのが嫌なだけだけど、この順番に書くと普通に誰でも嫌だな、くどかった。
 
そういや、また脱線なんですが菊池さん(菊池寛)が大阪毎日新聞で書いてたのもこの分類みたいねー、大正8年の『真珠夫人』の連載の前後でも奥さんとそんな話してたみたいだったし。
というか、菊池さんが言ってたように、読まれなきゃ意味がないよね、が結局最終的に正しいような気がしないでもないんだよな…。
というか「挿し絵入り新聞小説」がレベル低いから嫌だ、とか言ってた時点ではまあまあ実際にだいぶ差異があるんだろうなと思えるので気にならないんだけど、この大正中期くらい以降に出て来た大衆小説っていう概念出てから、なんとなく引っ掛かることが多いのかもしれないなぁ、繰り返すけど、歴史改変してなきゃいいのですだけどね。

4月25日めも。

だらだらだらだら「芸術精神による歴史改変は止めて欲しいよねぇ」の続き。
目的が個人のためだから、売れなくても読む人が少なくても平気って人はそれこそちゃんと慎ましいのでそういう感じの方に健全に頑張って欲しいんですよね、「慎ましさ」を武器に他人を脅す人らはなんかこう…すごい嫌だな…。
強引さで押し付けられるほうが、当人が責任を同時に取ってる気がするので正直マシじゃないかなって…ねぇ。
まああれ、ここまでの愚痴は主に資料を読んでいるとむくむくと溜まる愚痴でございます、いや、『日本文壇史』には関係ないんだよ文壇史には!
時系列で語る場合にそんなスピ的な物差しでは無理ってことなんだよね、きっと。
(つもる恨み辛み、繰り返すんだけど歴史の本でなければ別に気にしないんだよ、最初からスピリチュアル芸術語り本はそれはそれで必要だと思うしねー、たまには読むし、すごくたまにしか読まないけど。)
 
ここまで前置きですあまりに長すぎる。
が、まああれ、小説なんか2巻に至るまでないも同然の扱いだよ、みたいなところから察して欲しいのですが、1巻には小説すら出てこないです、の明治初中期。
なんか翻案みたいなものはあるらしいんですが海外小説の、なんかまだあらすじ書きとかシナリオト書きみたいな…、なんだろ、なんか半端な感じの出来なんだよね、今の人だと正直ほとんど面白がれない気がするんですが、そういうのが娯楽として通用していたんだよね、あの感覚はちょっとわかりにくいんだよなー…。
いや、それこそ少し前まで馬琴さんとか生きてたわけだし、寄席もあるんだけど。

4月26日めも。

『日本文壇史』の1巻めに関係した文学以前の社会の状況、ないし、それにかこつけた私怨みたいな感じのもろもろ、どの歴史でも多かれ少なかれあるんだけどねー、まあ(むしろ仏像研究読み始めた時に神秘色が極めて薄いことのほうがびびった域、いや、そのジャンルならあってもそこまで気にしないのに?! てしみじみ思ったよ)。
えーと、新聞は東京日日新聞さん(そのちょっと前に横浜毎日さん、あとの毎日新聞とは無関係)、朝日新聞は2巻で誕生してたよな、えーと、国民新聞の原型とか(徳富蘇峰さんが関わってれば同じところです、ちょくちょく名前変わる)。
あとあれ、読売新聞とか、坪内逍遥さんとか幸田露伴さんとか尾崎紅葉さん以下いろんな人がいた感じの読み物メインで始まって総合誌になったみたいな、文壇史の本からはえっらい評判がいい感じの新聞とか。
(いわゆる格式の高い政治メインの「大新聞」が政党と結び付いてひどい目にあっていたのでその気持ちもわからないでもない、文学メインで初めておいて、政治を扱って欲しいっていう要求で昇格したのってすごいよね実際。)
 
あとなんだっけ、そんなに詳しくなかったんですが、福沢諭吉さんが作ってた時事新報ていう新聞社があります、文壇史からはそこまで重要でないながら地味にいろんな人がいるんだけど、個人的には菊池さんがいたところって覚えております。
それと朝日新聞も少し生まれた時代が新しいんだけど夏目漱石さんの小説を載せて大躍進をしたみたいな感じだったりして。
ここで触れた読売新聞以外の東京日日、朝日、国民新聞、時事新報、…と忘れてた報知新聞が大正の五大新聞、と呼ばれているんだけど、教養になるかなーこれ。

4月27日めも。

『日本文壇史』の1巻だったりそうでなかったり、なだらだら話。ここで終了。
馬琴さん(江戸時代の少年ジャンプ担当みたいな、正直整合性は低いんだけど勢いがすごくある話書く感じの人)が亡くなってたりとか、それこそ文学そのものが生まれ掛かっていたりとか、小説というものが存在しているかいないかというレベルだったり、みたいな感じの時代です。
どうも次の時代はえーと、山田美妙さんで分離してるってことでいいのかな、坪内逍遥さんのほうが先かな?(この人は小説はほとんど書いてないし、それ以前にもそれ以降にも他の文化活動のほうが旺盛だよ)
本にはあまり具体的に出てこないんですが、翻案小説だとか、寄席の落語から書き起こした速記から「読む講談」というジャンルが新しく作られていたんだよー、ということを他所で読むことが出来るんですが、この本にはないんだよね、いろいろ惜しいのよね。
(文壇史から見ると吉川英治さんがいきなり地から涌いて出たみたいな唐突に表れる感じなんだけど、だいぶ前から業界にいらっしゃるというのがとてもわかりにくい。)
 
てか、途中で愚痴だらだらと書いてしまってたんだけど、高尚な小説とそうでない小説の区分じゃなくて、講談を存在しないかのように扱って小説のみで時代を進めて行こうとしているという部分の、具体的なこと愚痴ってたほうが良かったかもしんない。
具体的じゃない傾向への愚痴って、それはそれでこう、うん、あれ。
だがしかし、講談は講談だけで展開読んでいるので、実際にどう小説関係とつながってるのかがよくわからないんだよね、マジでわからないのです私にも。
舞台芸能読めばまあつながると思うんだけどね、先が長いでござるよ果てがない。

Tag: とうらぶ・文アル雑記
(とうらぶ・文アル他、79)