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雑記:とうらぶ・文アル他、83 の変更点

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*雑記:とうらぶ・文アル他、83 [#o61525b1]

***5月28日めも。 [#n3d4d690]

リアルタイムで12月9日、日付け越えちょっとくらいです、下の家のラジオらしきものがあまりにも音量がすざましすぎて「騒音測定器」のアプリを入れたら正直家のテレビを付けていた時点よりも(平均40くらいだったのが平均38になり、ただし時々ぶれて70とか60くらい行く)、どうも煩い気がします。
ここ数日で急激に音量が上がったので…(もともと音は聞こえてたけど正直それ自体珍しくない、内容聞き取れるレベルになった)、正直身体的な異常が出てるとしか思えないんだけど、当人には自覚ないんだろうなぁ…うううん。
 
とりあえずあれ、『日本文壇史』の4巻を読んだのでまとめようと思うんですが、よく考えたら1巻までしかまだまとめてないし、一応2巻とか3巻とかも書いたほうがいいよなぁ、今はなんとなくでも覚えてるけどあとあと忘れてくしな、と思ってるので日付けとか付けずに書いています。
日付けはなんとなくの自分へのノルマという意味しかないので、あまり意味はないですっていうか、さすがに煩いなこれ…他の家と協力して言いに行ったほうがいいのかな…、一回行ったんだけどこれか…。
えーと、いや、日本文壇史の1巻のとりまとめを読んでいたんですが(>雑記79)、正直さすがに恨み節全開なのであんまり意味がないな、私が書く分にはあれはあれで先に進むために必要なんだけど、他の人が読む意味はないなうん。
すごく大雑把に色んな新聞がまず出ましたよ、そこで小説という存在がぽちぽちと生まれてるような生まれてないような、という形で語られてた以上終了。
文学ではなく文化の黎明期から語るのはいいんじゃないかなぁ、正直。


***5月29日めも。 [#p6fe3cd9]

で、大雑把に2、3巻で硯友社という存在が文学界? と呼べばいいのかな、文学の狭い分野において展開していくということになり、それを牽引していたのが【尾崎紅葉】という人で、正直『日本文壇史』の中ではそんなに人物として描写されてるわけでもないんですが、まあそれはそれでいいんじゃないかな、という気もするんだよね。
ざっくり言っちゃうと硯友社が圧倒的になってるところをなんとか切り崩そうとした後世世代のほうが近い人から証言取ってる節があるからというか。
ただまあ、そもそも硯友社が既存のパイを分捕ったというよりも新規の荒野にまず開拓に行き、という展開を辿っていることは現代人にはわかるので、人物が小さかった的なことをあんまり強調されても乗れないところはないでもない。
長所に対してどうもこういうところがね、という観点だよなぁ、やっぱり。
いやなんというか、詳しくなくてもまず新聞が出来ました、新聞て最初はこんなもんでした、小説というものはまだ存在しませんでした、小説を読むのは限られた人たちだけでした、というところから語られてれば普通に考えればわかるよ…。
曲がりなりにも一部でも筆だけで(原稿代のみでは無理)、食べて行けるだけの世の中にした、のが紅葉先生とか幸田露伴氏なんだよね、その時代の小説を読む層というものに触れられてないけど、層自体を増やしたのが彼らで。
欠点だけ語られてもなぁ…、というのが正直なところなんだよねどうしても。
ただもちろん、小説作り上げたのは山田美妙さんとか二葉亭四迷とか、逍遥さんとかってことになるのかもね。
 
ただ、4巻で指摘されてた「政治がない」小説というのはまあさすがにわかる。


***5月30日めも。 [#nc140a4c]

日付け付けました、もうこの際「4巻先に扱ってから2巻とか3巻に戻るスタイルでいいや」と開き直ったとも言う。
ただそもそも、『日本文壇史』に関してはそもそも全てが信用出来るわけでもなく、個人の証言の寄せ集めみたいな部分もあるのでまとめる側もそこまでかっちりしてないほうがむしろいいのかもしれない、というところもあるんですが。
とはいえ、一つの時間軸で通して語るってのはそれでも十分すぎる意味があるとは思ってるけど、そのスタイルのせいで気になるところは気になってしまうところがあるのはしょうがないかもなぁ。
あれだ、『ローマ人の物語』みたいなもんだよね。
通史が他にほとんどないに等しいので、通史であるということで十二分に価値はあるのだけれども、なまじ通史が珍しい分、それが確定した情報のように見えてしまうというところで危惧があるみたいなの。
というかそもそも内容に現時点でほとんど触れてねぇがな、というのがないでもない、1巻はともかく、ほとんどが新聞の興亡だった1巻はともかく!!
 
えーと、紅葉先生が30歳越えくらいだっけ、硯友社最長老の人が36歳、逍遥さんや鴎外さんなんかも似たような年齢だったと思うので、とにかくなにもかも全体的に若い、4巻時点ですでに硯友社が絶対的地位ではなくなって来ているのですが、大家になっても年単位で作品を作っていないと評価されないという辺り、なかなか大変。
そいや、弟子の代筆で名前を変えていた、と3回くらい紅葉先生が批判されていたんだけど、あれ、別にあとの時代でも普通よな?(そのほうが売れるというか…まあ)


***5月31日めも。 [#qe350bcc]

前日からのだらだら直接続き。
というか紅葉先生の記述になんとなくやばい気配を感じたのは「多分一時期」の話がそもそも時間を何度も行き来する本において何度も批判として登場する辺り(それこそこの本読んでると時期が限られるのがなんとなくわかる上、褒め称えるほど立派でなくてもそこまであげつらうほどおかしなことでもないはずなのに、という点)(素人が「それは駄目だ」と思うんならいいんだけど、この本の証言者って業界人がメインのはずなんだよねぇ、正直、それとも逆に慣習そのものへの皮肉なのか)。
この本そのものを非難するつもりもないんですが、鵜呑みにするのは危ないんかもなぁ、というところかな。
花袋みたいに違うやんそれ(1巻時点ではまともな学歴ない扱いだったのに4巻ではやたらと知識自慢するということになってる、花袋は明らかにかなりいい家の出身だし、くどい知識自慢というのも他で聞いたことがない、というか少なくとも両方の記述を同時に信じるのはさすがにまずい)、みたいなのはまあ、仕方ないの範囲だと思うんだけども、傍目に見てわからないものも、あくまで個人、それもあまり詳しいわけではない人、という認識のほうがいいのかもねー、という感じ。
まあたまにいるんだよね、実際に親しいんだけど限られた時期しか知らない、知らないんだけどなんか結構ぺらぺらと語る人が…。
他所でもたまに存在するトラップの塊として捉えたほうがいいのかもね…。
 
本の内容とちょっと違う愚痴混じりだけど、まあこれはわりと真面目な内容かな。
ていうか硯友社が衰退、というのは多分この本だけだと足りないんだろうな、続く。


***6月1日めも。 [#z1f4c9d6]

硯友社の特に紅葉先生、それと硯友社の外でも露伴先生が批判されていたのが「思想がない」という内容だったんだけど、要するにこれは当時若者のムーブメントが自由民権(要するに平民の権利主張)と国粋主義(まあ端的に言うと日本強いよ、程度のあれ、思想って呼ぶのこれ)に別れていて、そのどっちでもない、という意味だったらしいんですが、なんだろう。
作中の女性の地位が低いんではないか、というのはそもそも逍遥さん辺りにも紅葉先生が言われてたみたいなんだよね(露伴先生の話はそんなに女性出てこない)。
んで、逍遥さんが言う分にはまあ良いとは思うんだ、いわゆるそちらの世界の女性を見受けして教育を与えて大事にしていた人だから。
ただ、そういう側面を小説に描くことが女性にとって恩恵だ、と言ってたら、それはそれでなんか変なんだよね、ただ意志のある女性を書いてみたらいいのではないか、という要請なら別に違和感がないというか。
他でもない紅葉先生が書くことに意味があるのではないか、というニュアンスで当時有名な人同士でそういう評論という形のやり取りが交わされたんだとしたらそれはそれでいいんじゃないかなー、と思うものの。
 
紅露時代に対し、小説に思想がない政治がない、という批判が展開していくのはそれはそれでどうなんだろう、という、ジャンルが違うだけじゃねーの? としか…。
なんかだいぶややこしい言い方になっちゃったんだけど、まあ一言で言うと江戸情緒で売ってた人たちに現代の社会が描かれてない!! という批判する時はもうちょっと言い方ねーかい? というのがあれで、全体的に未成熟なんだよな…全体的に。


***6月2日めも。 [#q21ab7e3]

前日分のだらだら続き、ところで教科書の一部なども含め硯友社や紅露時代の衰退は基本的に自然主義で説明されていることが多いんですが、この巻の田山花袋と国木田独歩はとりあえず寺でごろごろいちゃいちゃしてました。
独歩さんがとにかくモテるんだけど、見るたびにぷんぷん怒ってて、二次創作みたーい、としか言いようがないんだけど(いや当然、羨ましいからよ?)。
羨ましいからなんだけど独歩さん、それまで別にそんなに女にだらしない人物ではなかったはずなので…花袋が怒るのが楽しいからやってんじゃないだろうか、という思いでいっぱいになるのでその該当部分だけでも見るべきかなと思います。
一応二人ともぽちぽち文章売ってはいるものの、評論などにも参加することがないでもないものの、「硯友社の衰退」に自然主義の隆盛が連動しているという時点で、とりあえず時系列はぶっ飛ばした説明なんだな、という理解でいいんじゃないかと思います、この本の価値もそこにあって、事態の説明自体はともかく、なにが何年に起こったのかということに関しては、こと文学に関してはほぼ間違いがないからね。
自然主義の騎手らが寺でごろごろしてる間に硯友社がもうへろへろし始めてる、というのは、まあ、蓋然性の高い事実として受け取っていいんじゃないのかね(これを史実と呼ぶといい感じ)。
 
で、その当時になにが売れていたかというと、鏡花などもそちらに含まれてる「同時代が描かれた小説」なのではないかなー、と、単純に言うとそれだけだよね要するに、政治小説というのもあくまで同時代に戦争があったからで、世相を反映すると自然にそうなるだけというか、これを変にオブラートに包んだからわかりにくいんだよ要するに…。


***6月3日めも。 [#qd059aeb]

つまるところ要するに、山田美妙さんなどが小説を書き始めたものの(この人は残酷な展開を売りにしていたらしいんだけど、まあうん、安っぽいわ、紅葉先生のがマイルドな分、逆にずっとサド度が高いと思う)、その新時代のシロモノに元禄じじいどもが特に着いて行けず、紅葉先生やら露伴先生が時代逆行した成分のある文章も漢文に近いところから徐々に「温度を上げて行き」。
その間に若い人たちは若い人たちでなんらかの自分たちに合致する心の潤いを求め始めたのだ、みたいな感じで理解するといいんじゃないのかね。
自然主義がその説明に使われるのは本来の意味においては自然主義というのは社会が変革する時にそのあと押しをする、それこそダーウィンの進化論なども含めたジャンルであったからで(小説もその一部)、それこそその当時の時代がそれからの日本、というものを若い人間まで考えなければならなかったから、小説も自然にそういう形になったんだ、という順序なんじゃないのかなぁ。
で、自然主義だとなんか恰好いい感じだもんね、うん。
 
これを簡単に別の言い方で言うと「そろそろ元禄じじいどもが寿命が来てた」という説明にするとわかりやすいけど駄目な気もしますが、要するにそうだよね?!
そもそも小説というのが高級な娯楽とされていたのは『日本文壇史』の中でも樋口一葉さん近辺で語られていたんだけど、たかが娯楽で政治だ人間の精神だ、というところを読むまでに至るまでの間、そのインターバルがあったというのが紅露時代であり。
その次の時代との変化が激しい気がするんだけど、その激しさって要するに日本の変化の激しさをまんま反映したものって考えたほうが妥当なのかもねー。


***6月4日めも。 [#ba733a76]

ていうかこの本ではわかりにくく、そこに関しては責めるつもりがないものの、要するにこれ「政治が若者にとって娯楽として作用していた」という、文学とはまた別の要素を一緒に語らないとわかりにくい気がするんだよね…。
これが語られていくのが多分演劇の世界だと思うんだけどねー。
んでさらに言うとこの次の時代、夏目漱石氏なんかが出て来た頃になるとそれこそ小説と哲学と宗教というところに要求が移り、ということになるんだけど、これも正直、哲学メインの人が語っていたほうがずっとわかりやすかったもんなぁ…。
 
なんというか本そのものの内容ではないものの、元禄じじい(元禄老人というのが元ネタなので、ニュアンスはほぼママだよ! 社会学の人がそう言ってるらしいです、便利な概念だからと使われていたので伝聞)がせいぜい嫁取りや日常の江戸情緒の話を好み、中間世代はそもそも文章で娯楽を読むという感覚に乏しく。
そして下の世代は政治を娯楽として摂取したがる。
という構図そのものが、まあまずあかんというか、あかんって言っても当時の実情なんだから責めてもなんの意味もないものの、これが全部ごっちゃに文学性だ芸術的だなんだと語られるのよくない気がします。
んで、どの世代もちょっとだけピンクな雰囲気があったり、ゴシップ混じってるほうが好きなんだけど、そのゴシップがあからさまなやつは低俗だから駄目、ということで下に見るみたいな展開が常にあり。
その匙加減というかどこからが下品でどこからがお高く留まってるのかは…多分、世代によって全く違うのではないかという…面倒だねこれ!!


***6月5日めも。 [#a7747026]

なんかこう、曲がりなりにも結論出てしまったのであと2日分書くのがかったるいんですが正直、本の内容が自然主義と硯友社しか書いてなかったのでちゃんと触れると、美妙さんが大変に辛い感じの立場になっているとか、常になり続けているというか、ただ最初に叱られたやつだけは本当に無理もなかったと思うんだ「妾置いてもいいけど大事にしろ、芸術のためとはなにごとだ!」てやつでし逍遥さんです、これは、本当に、言われたら辛いだろうなというくらいに正論すぎて…。
あとあれ、子牛と私が一緒になんか若くて地位認められる寸前くらいに死んじゃったんだよね、ということで記憶していた川上眉山さん(川上さんと眉山さんで別人と認識したままで話をしようとしていたよ多分死に方が印象的なせい)。
美男なんだけどなんかもう美男怖い、みたいに一葉さんが逃げてました。
一葉さんはけしてお尻は軽くないんだけど、若干惚れっぽいみたいです。
ただ周囲がこの女なら俺のことをわかってくれるはずだ!! みたいな感じで詰め掛けてくるのはどの時代でも変わらんので責めたくはない。
一葉さんは別の美男との間になんか誤解したままとかそういう感じの話が語られてまして、真偽はわからないけど、あの時代って結構色んなこと書かれてるから、まあ、ありえない話でもなさそうよね…。
(誰にとってもそれほどさして失礼ではない、ゴシップ性の薄い話なのでまあ、そんなに神経質にならなくてもという本音もある。)
 
あとなんだっけ、博文館がちまちま頑張ってて、批評だと鴎外さんと露伴先生がわりとぶいぶい言わせてた感じか、そういや新潮社の原型も出来たっぽい。


***6月6日めも。 [#g39f46be]

最後の一日分、ところで一葉さんは結局、認められてさして時間もないままに早逝してしまったってことになるのか…ほのかに好きだった相手に子どもがいるとか誤解してなければもうちょっとなぁ、と思えないでもなく(しかし裕福ではないにしろ、常に食い詰めるほどには貧乏というわけでもなさそうなのでそこも微妙)。
紅葉先生や花袋はなんかちまちま描写が変わるのでなんとなく油断がならず。
わりとこう、藤村に関してはちゃんと時代つながってて感情の動きなどもわかりやすかったんだけど多分あれ、長生きだったからだろうなぁ、と思えないでもなく。
花袋とはまだ知り合ってない、ということでいいのかな、ところで花袋と独歩さんはなんでまたあんだけべったりしてんだ…と思ったものの、よく考えたら当時友人のために仕送りするとか生活の面倒を見るとか、そんなに珍しくないみたいだからそんなでもないかなぁ、というところかしら。
漱石さんと子規さん辺りがそうやって過ごしてたりするよね。
花袋と独歩さんだけなんとなく気になったのは、ほぼ生活状態が対等で、話し合いでどこで生活しようという部分から描かれてるからというだけな気もしないでもない。
 
そもそも独歩さんは小説を書いたことがなかったんだけど、一発書いてみるかー、みたいな感じで花袋の前で書いてました。
うんやっぱり、この二人に関しては気になる人は読むべきじゃないかと思う『日本文壇史』4巻、なんでこんな書き方なんだろうここだけ、となるから。
ただあれ、今まで居場所がなかった花袋と、有能だけど精神が不安定だった独歩さんて組み合わせ自体、確かになんか、こう…悪くないよね、傍目に。

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(とうらぶ・文アル他、83)
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